NHK「豊臣兄弟!」では、京の聚楽第が完成し、盛大な茶会を開くシーンが描かれた。史実によればその前に秀吉と秀長らは九州へ下り、島津氏を降しているが、今作では詳しく描かれなかった。九州征伐はどのような戦いだったのか。ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に史実に迫る――。
東京都渋谷区神南2丁目のNHK放送センター
東京都渋谷区神南2丁目のNHK放送センター(写真=J o/CC-BY-SA-3.0,2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons)

秀長の最大の見せ場・九州攻めが省略された

NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」。徳川家康(松下洸平)による豊臣秀長(仲野太賀)の暗殺計画という壮大なフィクションを経て、第42回は北野大茶湯。秀吉(池松壮亮)が普請させた京の聚楽第が完成。秀次(山田涼介)は、その祝いに盛大な茶会を開くことを提案するという流れ。1587年に開かれたこの茶会の後、1590年に小田原征伐が行われついに秀吉による天下統一は実現することになる。

……あれ? なんかおかしくないか?

北野大茶湯が開かれた1587年の春から初夏、秀吉は何をしていたか。20万ともいわれる大軍を率いて九州へ下り、島津氏を降している。茶会のわずか半年前の話だ。

史実のカレンダーに、ドラマの流れを当てはめてみよう。あさひの輿入れが1586年、家康の上洛が同年10月、そして北野大茶湯が1587年10月。この間に九州平定が、すっぽり入る。入るはずなのだが、そこで描かれたのは家康による秀長の暗殺計画である。

主人公の生涯最大の戦果かもしれない戦いが、年表の穴になっている。九州攻めを省いて、家康の暗殺計画を足す。歴史ファンとしては、九州征伐はどうしたあああ! と叫びたくなる。

しかも九州攻めは、秀長にとって脇役の戦いではない。むしろ、秀長がもっとも大きな成功を成し遂げたともいえる戦いだった。四国攻めでは「総大将に秀長を指名」と、わざわざ一回分を使ったドラマで、これはひどい。

そこで、今回の記事では九州征伐で秀長がなにを成し遂げたかを検証してみたい。

“秀吉がくる前”から九州は大混乱

そもそも、当時の九州は秀吉がどうこうする前から、すでに相当なカオスだった。

尾下成敏「九州停戦命令をめぐる政治過程」(『史林』93巻1号、2010年)は、この時期の九州の重要な勢力として大友、龍造寺、島津、阿蘇、秋月の五氏を挙げる。

1578年、日向の耳川で島津義久が大友宗麟を破った。1584年には、肥前島原の沖田畷で島津・有馬勢が龍造寺隆信を討ち取る。大友は落ち目、龍造寺は当主が戦死、そこへ島津が北上してきたのだ。その最中、後を継いだ龍造寺政家は島津の「幕下」に入る道を選んだ。つまり事実上の降伏である。

もっとも、島津と大友の間には、1581年(天正9年)に信長と近衛前久の仲介でまとまった和睦がいちおうあった。ところが、その後の九州では、この和睦が看板だけになったように話が進む。

1584年(天正12年)秋、島津は「自軍を肥後の八代まで下げるから、大友も筑後から豊後まで引け」と求め、大友は10月下旬に撤兵を約束した。しかし大友勢は筑後の高良山などに居座り続け、実際に引き揚げたのは約1年後、1585年9月である。尾下成敏は、この約束について、大友父子が同意した上でのことか、口先だけの約束、踏み込んで言えば謀略なのか、「不明と言わざるを得ない」と記している。