家康を警戒し、九州攻めが後回しに

ところが1586年の春、大坂で秀吉に会った島津の家臣・鎌田政広に示されたのは島津の領地を大幅に削る国分案だった。当然、島津が受け入れ難い内容である。しかも秀吉は回答期限を6月末とし、期限を過ぎた7月に九州征伐を表明している。

この慎重な動きの背景を、尾下は次のように考察している。

秀吉がこうした方策を採ったのは、毛利・大友関係がなお不安定であったことや、東国情勢が不安定であったこと、例えば天正十四年正月下旬頃に秀吉と和睦した家康が、一カ月余り後の三月九日、関東の北条氏政・氏直父子と伊豆三島で会談し、徳川・北条両氏の提携関係を秀吉に誇示せんとしたことが、要因ではなかろうか。直ちに軍事行動を起こすことに不安を抱いていたと想定されよう。

これに対して、秀吉がとったのがドラマでは第40回(10月18日放送)で描かれた、あさひの輿入れである。

つまり、天下統一を目指す秀吉だが、家康の動向を見て容易に動くことができず、条件が揃ったところで、ようやく戦に踏み切ったというわけだ。

「公儀」の窓口だった秀長

ドラマでは、あさひの輿入れも家康の上洛も、家康との駆け引きの物語として描かれた。ところが史実では、その駆け引きは九州攻めの条件整備とも絡んでいた可能性がある。九州征伐を飛ばしたせいで、人間ドラマとしては面白いが歴史ものとしては盛り下がった感は否めない。

この複雑な状況で、秀長は何をしていたのか。天野忠幸『大和大納言 豊臣秀長』(平凡社、2025年)では、これに多くのページを割いている。

目につくのは、秀長が「公儀」の窓口だったことだ。1586年4月、島津に追い詰められた大友宗麟が大坂城を訪れ、援軍を求めた。このとき秀長は、酒で宗麟をもてなし、その手を取って、内々の儀は利休に、公儀の事は宰相が、と万人の前で述べたという。宗麟は感激し、被官たちに、いつでも秀長を頼れと書き送っている。接待の主役は、秀吉ではなく秀長である。

豊臣秀長(羽柴秀長)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大名。豊臣秀吉の弟(奈良県大和郡山市春岳院所蔵品)
豊臣秀長(羽柴秀長)戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大名。豊臣秀吉の弟(奈良県大和郡山市春岳院所蔵品)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

島津からも、取りなしの依頼は秀長に届く。1585年10月に義久が、翌1586年9月にも、秀長らに宛てて、秀吉の命令は守っていると抗弁した。和睦の窓口は、秀長が受け持っていたわけだ。

ところが、前述のように、秀吉はのんびり和睦を待っていたわけではない。島津が受け入れ難い国分案を示し、回答期限を切って開戦を先延ばしにしながら、条件が揃うのを待っている。