まとまらない停戦、混乱に拍車をかけた足利義昭
一方の島津は和睦を守る気だったのか? 大友勢が筑後から退いた直後の1585年10月、島津の談合では、豊後方面の軍事行動が議題になっている。
ところが同年12月、毛利輝元宛ての義久の書状案は、京都の仲介でまとまった和睦の筋は今も変わっていない、と述べる。尾下は、義久の書状は大友との戦端を開いたと述べるには至っていないが、武力行使の選択肢は捨てていなかった、とみる。
口約束の停戦、居座る軍勢、水面下の出兵の相談。これが九州の日常であり、そこへ「停戦せよ」と命じるのは、秀吉にとっても骨の折れる仕事だった。
さらに話をややこしくしたのが、いまだ権威を保持していた将軍・足利義昭である。天正13年(1585)2月、備後の鞆にいた義昭の上使が、毛利の使僧とともに鹿児島に着いた。義昭は義久に大友攻めを命じ、九州の「太守」に任じると約束している。毛利は門司城を押さえて九州の政局に影響を及ぼす存在で、義昭を保護しながら大友と対立していた。
一方で秀吉とも関係は良好で、毛利は将軍と関白の間に両属する形になる。島津には島津で、信長と近衛前久が仲介した和睦という、もうひとつの「京都の権威」がある。将軍の命令、関白の命令、過去の仲介。誰の権威に従うのが正解かが決まらないまま、九州は動いていた。
「天皇の権威」を用いた秀吉の停戦命令
こうした情勢下で、秀吉が大軍による侵攻に踏み切るまでは時間を要している。
1585年10月、秀吉は島津義久に直書を送り、九州での戦闘停止を命じた。従わなければ「成敗」を行う、というものである。同じ内容の命令は大友にも毛利にも出された。尾下は、これは九州派兵が困難な情勢下で採られた策だったと考察している。長宗我部を降したばかりで大軍を送る余裕がなく、大友が滅びるのも、島津を攻めるのも、まだ得策ではない。だから「和戦」の両にらみで、停戦が成れば大友を救って九州進出の足がかりにし、成らなければそれを理由に「成敗」の名分を得る、という二段構えだったとする。
この命令には、天皇の意思・意向を示す「叡慮」の語が明記されている。尾下はこれを、義昭の大友討伐命令を毛利が断る名分を与えるための工夫だったのではないか、と推測する。将軍より上の天皇の意向を前面に立てれば、毛利は義昭の命令を断りやすくなる。九州の停戦命令は、実は九州の外にも向けられていた可能性がある。
その後の秀吉は、拍子抜けするほど慎重である。同年11月、徳川家康の重臣石川数正が出奔し、29日には畿内を中心に大地震が起きる。尾下は、この状況では九州派兵より停戦実現の方が得策で、秀吉は和戦のうち「和」の比重を高めていたとみる。

