毒伯母の奴隷のような両親

榎木さんの両親は、中学卒業とともに集団就職した世代だった。父親は小学校入学前に麻疹にかかり、足の先が壊死。右足のくるぶしから先と、左足の指3本を失っていた。麻疹の治療のせいで中学校の卒業が3年遅れた父親は、18歳で都内にある老舗クリーニング店に住み込みで働き出した。

一方母親は、15歳で四国の紡績工場へ集団就職。その後、大阪、東京に移り、雇い主同士の紹介で、父親33歳、母親27歳でお見合い結婚した。

翌年母親は榎木さんを、その3年後に男児を出産。

父親は35歳の頃、南関東でビルのメンテナンス会社を立ち上げた兄の仕事を手伝うことになり、家族で集合住宅に引っ越した。

「平屋で6畳間と4畳半の2部屋に、汲み取り式のトイレとむき出しのコンクリートの風呂場だけの小さな家でした。伯父の会社も小さなプレハブで、休みの日は数人の社員とその家族でバーベキューをしたりするごくごく普通の会社だったと思います」

変化が訪れたのは伯母が来てからだった。

伯父の1人目の妻は死別。2人目は離婚。3人目だったその伯母は、当時としては珍しく大学を出ており、実家は資産家で経営や不動産のことに詳しかった。

「伯父の会社がその後に大きくなっていったのは、間違いなくこの伯母の力によるものだったと思います。ただ伯母は『人としての何か』が決定的に欠けている人でした」

もともと明るく、友だちも趣味も多かった父親だったが、伯母が来てからは、休日は一人でただ寝て過ごした。そして母親も伯父の会社を手伝わされるように。平日は早朝から深夜まで働かされるため、まだ幼い弟の世話をするのも家事をするのも、もっぱら榎木さんだった。

「伯母から一番支配されていたのは母で、殴られているのを見たことがあります。両親は人生で一番自由で楽しかったのがずっと後に訪れることになる“介護期”と言えるほど、長期間にわたって自由を奪われていました」

シニア女性の手を握る手元
写真=iStock.com/Barcin
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給料は2人合わせても12万円前後しかもらえないのに、月曜から土曜まで8〜22時まで働かされ、唯一の休日である日曜日も、自宅に仕事を強制的に持ち帰らされた。

「父と母が家にいないので、ずっと私が弟の世話をしなければなりませんでした。私は中学生以降、弟は小5以降、入学式、卒業式、三者面談などに親に来てもらったことはありません。学校の準備や進学先の選定など、親は一緒に考えてくれる時間がなかったので、ぜんぶ自分でするしかありませんでした」