怒りの票は、どこへ流れるのか
社会的な要求から始まった運動の、選挙における最大の受益者が、強硬な右派になることがある。生活苦への抗議が、秩序を回復できる強い国家を求める票に変わるからだ。国民連合のルペン氏が、社会政策よりも国家が秩序を失ったという物語を前面に出しているのは、この回路を見据えてのことだろう。
ただし、古典をそのまま現在に重ねることには限界がある。現在のフランスは旧体制の王政ではない。普通選挙があり、労働組合、政党、司法、地方自治体、EU、人権の制度がある。今回の抗議を1789年の再来と見るべきではない。41万人は巨大な数だが、人口全体から見れば少数でもある。参加者数だけで、国民全体が政権を拒絶したとは言えない。
治安を重視する側にも、聞くべき反論がある。平和的な要求が正当であっても、略奪や放火を許せば市民の自由は失われる。7万人を超える配置によって、24日の被害が前の週末より小さくなったという政府の説明には、根拠がある。
一方で、逮捕は有罪判決ではない。抗議の禁止や広範な予防拘束、過剰な武器の使用が常態化すれば、治安の確保が政治的な異論の抑制に変わる危険もある。
本社がすべてを決める会社と同じである
ここから、日本の経営に持ち帰れるものがある。人事も、投資も、価格も、採用も、すべて本社が決める企業を考えてみたい。中央で決めるほど、方針は速く通る。全社の方向はそろう。これは強みである。
同時に、問題が起きるたびに、現場は本社へ解決を要求するようになる。現場で判断できる範囲がなければ、現場で吸収することもできないからだ。そして本社が応えられなければ、それは本社の失敗として記録される。実行力と引き換えに、非難もまた一点に集まる。
トクヴィルが中央集権について書いたのは、この構造である。強い中枢は、多くを実行できる。だからこそ、実行されないことの責任も、すべて引き受けることになる。
外国の混乱を、急いで持ち込まない
日本の社会にも通じる論点がある。物価高、地方の学校や病院、若者の住宅、公共交通。別々の問題に見えていても、生活基盤の劣化が積み重なり、政府は自分たちを見ていない、という共通の認識に変わると、単一の争点を超えた動きになる。フランスで、高校生の訴えから始まった運動が全国へ広がったのは、その過程である。
そしてもう一つ。外国の混乱を、自国の議論へ急いで転用しないことである。
暴動の映像は、原因を映さない。誰が、何を要求し、どの集団が、どの時点で暴力へ移ったのか。それを分けて見なければ、見えるのは炎だけになる。尖塔と見えたものが市庁舎の鐘楼だったように、映像は原因どころか、対象さえ取り違えさせる。平和的な抗議者と、暴力的な活動家と、便乗した犯罪者は別である。抗議者はすべて暴徒だという見方も、暴力は社会的な怒りだから仕方がないという見方も、同じように事実から遠い。
トクヴィルが残したのは、豊かさと安定は同じではない、という視点である。改善できるはずだという期待と、改善されない現実との距離が、怒りを生む。
国家でも企業でも、中枢は何を引き受け、現場には何を決める力を残すのか。期待と現実の隔たりを縮めるには、その関係を問い直す必要がある。
『古典で読み解く! 10年後の未来』でお伝えしたかったのも、出来事の背後にある構造を捉え、自分の仕事や暮らしを考えるための視点である。
構造を知る者は、構造に飲み込まれない。
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