強い国家は、失敗の責任も引き受ける
『旧体制と大革命』は、行政的な中央集権についても分析している。
トクヴィルの診断は、通説とは逆だった。革命は過去との完全な断絶ではない。革命政府は王政が整えた中央集権と官僚制を受け継ぎ、むしろ強化した。壊したのは王政であって、集権の仕組みではなかったのである。
この診断が、現代のフランスに効いている。
第五共和政は、大統領と中央官僚機構に権限を集中させる。だからこそ危機の際に7万人を超える警官を迅速に配置できる。同時に、学校の教員不足からガソリンの価格まで、すべてが大統領の責任として受け止められる。
権力を集中させれば、実行力だけでなく、非難も集中する。
学校に教員がいない。燃料が高い。住宅が足りない。このとき要求が向かう先は、自治体でも、大学でも、企業でも、地域社会でもない。最終的に大統領になる。
これは中央政府の能力に対する信頼の裏返しでもある。国家が日常生活の多くを引き受けるほど、市民はあらゆる欠乏を国家の失敗として経験することになる。
トクヴィルはさらに、人々が法的にも文化的にも似てくるほど自動的に連帯するわけではない、と書いている。地方自治や共同の活動を失えば、似た人々が互いに孤立した小集団へ分かれていく。政治的な自由とは、中央政府へ要求する権利のことだけではない。自治体や団体や議会を通じて、市民が共同で問題を解決する経験そのものである、というのが彼の結論だった。
暴力は、要求を上書きする
ここに、もう一つの構造がある。
41万人の要求を、パリの約500人で代表させてしまえば、教育も住宅も物価も、治安の問題に置き換わる。逆に、暴力を正当な怒りとして軽く扱えば、店舗や住民や警察官の安全が犠牲になり、運動そのものが支持を失う。民主政には、抗議する権利と、第三者を暴力から守る義務の両方がある。
そして、映像として広がるのは燃える車と略奪のほうである。ここから一つの循環が生じる。
左派が社会的な要求を支持する。一部が暴力化する。右派が秩序の回復を訴える。政府が警備と規制を強める。左派がそれを弾圧だと批判する。

