夫を亡くし、母は厳しい工場労働に

その小説からもうかがえるが、千代とリュウは暴君だった父親・宇野俊次(リュウにとっては夫)のDVに耐える日々で結びつき、5人の弟妹を守るためにも、それを生涯続けた同志のような関係だったのではないだろうか。

千代が教員をクビになる2年前、俊次が亡くなり、一家の収入源は絶たれた。岩国高等女学校に通っていた千代の高額な学費を払い続けるために、リュウは近くの義済堂という製糸工場で糸取りをして働き、毎朝、夜が明ける前から家を出て職場へ通った。「母よ」によると、それは夜までかかる『女工哀史』並みの1日12時間労働だった。

製糸工場での糸取り
写真=iStock.com/gyro
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千代の父に17歳で嫁ぎ、立て続けに5人の子を産んだ義母は、そのときまだ30歳前後だった。千代が後年「あのときは、(工場労働で)辛い思いをさせて、済まんことじゃったのう」と労うと、リュウは「何の、お前の学校のためかいの」と否定し、糸取りをしながら歌を歌うのが好きだったから働いていたのだと言った(『生きて行く私』)。

千代上京後、岩国に残された母は…

リュウの女工哀史ライフは短期間で終わったとも、10年ほど続いたとも、千代は書いているが、『生きて行く私』によれば、千代が25歳のとき、366円(現在の価値にして約400万円※)という高額な原稿料をもらい、それを家族に見せたくて6年ぶりに岩国に戻ったとき、「母の手は、女のものとも思えぬほど節くれ立ち、かさかさに荒れていた」という。そのときもリュウは千代から大金を渡され、うれし泣きをした。

※大正14年の金価格(1グラム=1円73銭)を基に算出した参考値。

ここからは「ブラッサム」のネタバレになってしまうかもしれないが、リュウはそうして、たいへんな苦労を苦労とも言わずに、5人の子を育てあげて成人させた。千代が38歳のときには上京し、しばらく一緒に暮らしたようだが、その後、岩国に戻り、千代が54歳のときに死去した。胃がんだった。