継母だけは千代を責めなかった

宇野千代『生きて行く私』(角川文庫)
宇野千代『生きて行く私』(角川文庫)

自伝『生きて行く私』では、朝鮮半島と京都、二度の旅立ちの様子が印象的に描かれている。

実母亡き後、千代を3歳のときから育ててきた義母リュウは、「ブラッサム」で国仲涼子が演じるリョウのように、とても娘思いの母親だった。

2回とも港から船で故郷を旅立つ娘を見送り、「風邪かぜをお引きなよ」と声を掛けたという。

そもそも千代が「ふしだら」な行為によって小学校をクビになったときも、リュウは娘をいっさい責めなかった。

母は私の免職の話はよく知っていた。よく知っていたのに、どうしてそんなことになったのか、などとは、決して訊きいたりしなかった。そして、私の当然うけるであろう世間の風当たりを、自分も一緒にうける気でいたのであった。

千代が代用教員として初めての給料をもらい、それを全額手渡したときは「ありゃ、こんとに、みな、わしが貰もろうてもええかいの」と涙を浮かべたリュウ(『生きて行く私』)。夫を亡くし、ひとりで5人の幼い実子を育てなければならない日々の中、千代の給料が当てにできなくなっても、文句ひとつ言わなかった。

“継子いじめ”は一度もなかった、ただ…

リュウは後妻として3歳の千代を育てることになり、実子を次々に5人産む中でも、一度も“継子いじめ”をしなかったという。むしろ自分の産んだ子たちには長女である千代を「姉さま」と呼んで立てるように言い、おやつを分けるときなどを始め、何事においても千代を優先した。

私にとっては二度目の母が、あまりに好い人であったためかも知れない。継母は私を大切に育ててくれた。

芝居などで見る継子いじめの反対なのであった。

この母の子供の育て方は、私たち兄妹に思わぬ影響を与えたものであった。私と私の五人の弟妹たちとは、世にも仲の好い兄妹になったからである。

私はあの母が自分にとっては生母でないと知りながら、そのままの母を愛していたのであった。

(宇野千代『生きて行く私』)

この文章は、千代が80代になってから書いたもの。30代の頃に書いた短編小説「母よ」では、フィクションの形を取りながら、そんなきょうだいの中での“特別扱い”がかえって自分は本当の娘ではないと思い知らされることになったとも綴っている。実子の弟たちと比較し、「(自分は)生まれてからただの一度も指を触れたことのない貴女あなたの肩や膝や乳房、(中略)見詰め乍ながら暮くらしました」と肉親ではない距離感とそこから来るさびしさを告白している。

『新選宇野千代集 「母よ」』(改造社)昭和4年
『新選宇野千代集 「母よ」』(改造社)昭和4年(画像=国立国会図書館デジタルコレクション)