実家に紅葉を100本植えたワケ

こうして千代の生家は、昭和49年(1974)3月に昔の姿を取り戻し、現在も訪れれば、千代の幼少期の生活を偲ぶことができる。ただし、約300坪と広い庭の植生は、千代が大胆に変更したという。松や杉、檜などの常緑針葉樹が多く植えられていたが、それらは抜いて、100本を超える紅葉を植えたのだ。

その結果、秋になると庭は真っ赤に染まるようになった。それは千代が、錦帯橋と桜の組み合わせを意識し、それと対比させたのではないかと思われる。錦帯橋の周囲は桜の名所として知られ、「ブラッサム」でもその光景が映し出されるが、桜の木が最初に植えられたのは、千代が生まれる10年余り前の明治19年(1886)で、それまでは松などが植わっていたと思われる。

木材による構築物は昔の姿を継承し、その周囲を飾る樹木は、ある季節に一色に染まるもので統一する。錦帯橋と千代の生家は、「本物」の活かし方において見事に共通している。

ところで、千代は『宇野千代 ちょっと自伝』(マガジンハウス)で、以下のように語っている。

〈錦帯橋を渡って北へ行った山の上がお城ですからね、こういう形の橋は敵が来ても攻め難いそうです。/岩国は城下町といっても六万石、小さな町でしょう。殿様は吉川公、あの吉川晃司は吉川家の縁者だそうですよ。だから、わたし、あの歌手のファンなの〉

吉香公園にある吉川広家の像。
撮影=プレジデントオンライン編集部
吉香公園にある吉川広家の像。

現在の「天守」は史実と異なる

千代は少し誤解していたようだ。たしかに、錦帯橋を渡った先の横山の山上に岩国城はあったが、錦帯橋ができる60年近く前に破壊されていた。城を築いたのは吉川広家だが、その領地は独立した藩ではなく、毛利家長州藩から分地されたもので、広家は長州藩主、毛利輝元の家臣だった(広家は輝元の従兄弟)。

岩国城は慶長13年(1608)に竣工したが、その7年後の元和元年(1615)、幕府は大名を統制するために一国一城令を発布し、各大名は居城を1つ残し、ほかの城は破却するように命じられた。

関ヶ原合戦では輝元が西軍の総大将を務め、幕府に睨まれているという認識がある長州藩は、おとなしく従うことを決め、山上の岩国城は破却の対象になった。錦帯橋ができたとき、政庁と領主の居館は山麓にあり、これも堀と石垣に囲まれた「城」ではあったが、山上には半ば崩された石垣が残るだけだった。

しかし、現在、錦帯橋からその横山を遠望すると、山頂に天守が建っている。これはいったいなんなのか。

岩国城。
撮影=プレジデントオンライン編集部
岩国城。