創建時の技と意匠が継承されている錦帯橋
まずは「ブラッサム」に毎回登場する5連アーチの錦帯橋について。岩国の町は川幅約200メートルの錦川の流れで、西側で山寄りの横山地区と錦見地区に分けられ、両地区が錦帯橋によって結ばれている。江戸時代には、横山地区に領主の居館や政庁、上級武士の屋敷が、錦見地区に中下級武士の屋敷や町人が暮らす町屋が建ち並んでいた。
だが、両地区を結ぶ橋は洪水のたびに流されてしまった。そこで周防国岩国領三代目の領主の吉川広嘉は、流されない橋について考察を重ねた末、川のなかに城の石垣を積む技術を応用した堅固な橋脚を4つ築き、そこに3つのアーチ橋を架け、両端にだけ木組みの橋げたに支えられた橋を架け、5つの橋で川幅をカバーすることを思いついた。
こうして延宝元年(1673)に完成した錦帯橋は、翌年の洪水で流出したものの、すぐに強度を改善してふたたび竣工すると、今度は昭和25年(1950)の台風で流出するまで、二百数十年にわたって持ちこたえ、岩国の繁栄を支えることになった。
ただし、木造部分は日夜風雨にさらされ経年劣化が激しく、安全にもかかわるので、中央のアーチ橋は約20年に一度、両側の橋は約35年に一度、同じ技術をもちいて架け替えられてきた。現在も橋の様子をみながら、同じ構造、同じデザインで架け替えが繰り返され、それを通じて大工の技術も継承されている。
宇野千代の「本物志向」との共通点
橋自体は昔のものがそのまま残っているわけではない。創建当初、構造が画期的で、遠方から多くの見物客が訪れたという錦帯橋は、緻密な技術の継承により、いまも現役の橋として創建当初の姿を見せている。本物を継承している、という自負があるからだろう、山口県と岩国市は世界遺産への登録をめざし、まずは国内の暫定リスト入りを実現すべく取り組んでいる。
もとの姿を維持するという「本物志向」は、千代の志向と重なってみえる。とくに生家への姿勢は、錦帯橋のあり方と近い。
岩国市川西の生家は、昭和26年(1951)に亡くなった継母のリュウがずっと「川西の往還を通ると、うちの家が一番ひどうなっとる、と人がみなお言いるげな」と言っていたという(『生きて行く私』毎日新聞出版)。その後も弟の薫から、田舎の家がひどい状況だからといわれ、一緒に生家を見に行くと、家は大きく傾き、かろうじてつっかえ棒で支えられている状況だった。
そこで千代は修繕を依頼したのだが、使える材は極力使いながら、江戸時代に建てられた家が、できるかぎり昔の姿で再現されるように指示し、東京と岩国のあいだを往復しながら監督したという。


