婚家から実家に戻り、父が亡くなった
(宇野千代『生きて行く私』)
1913(大正2)年、横暴な父が亡くなり、千代は「涙を滝のように流したがやはり何となく嬉しかった。私はもうどんなことでもできる」と感じた。
そう感じたのは千代だけではなかった。
弟妹たちは大きな声で取っ組み合いの喧嘩をし、流しの芸人が来ると気兼ねなく飛び出していった。母も家事をしながら歌を歌った。宇野酒造からの送金は父が亡くなったと同時に止まったため、母は糸とり工場で働いた後、貸家をした。
千代は女学校でも常に成績が良く、級長で通した。その一方、学校で禁じられていた雑誌をよく読み、平塚らいてうの「原始女性は太陽であった」に勇気づけられた。密かに変名で『女子文壇』に投稿を始めたのもこの頃のことだ。女学校の友人たちと回覧雑誌を作ったが、先生に見つかって校長室に呼ばれて叱られた。それでも懲りず、後に学校の外にある同人雑誌『海鳥』に加わった。そのメンバーで写真館で撮った写真がある。千代は校風かつ少女のような桃割れに結い、友人は縞の着物に男袴、三高(旧制第三高等学校)の帽子を被った男装で写った。少女たちの気概が伝わるエピソードだ。
女学校を卒業、小学校の先生に
女学校を卒業した千代は、1914(大正3)年4月に代用教員となる。勤務先は自宅から約4km離れた川下村の尋常高等小学校である。劣等生組を受け持ったが、鼻水を垂らしたり、頭皮にできものがあったりする貧しい子どもたちが褒められて目が輝く姿に感動した。なかには首席の子と引けを取らない成績を残す子も現れ、千代はやりがいを感じた。
夏休みのある日、母が使っていた白粉を借りて塗ってみると、「この世のものと思えない美しい娘の顔」に変貌した。もともと地黒を気にしており、亡父にもよく「そんとな色黒で、嫁の貰い手があるか」と言われていた。このとき以来、千代は白粉を手放したことがない。同時に、「この白粉が剥げたら、このお面がとれたら、化けの皮が剥がれるのだ」という恐怖もつきまとった。