天下統一を優位にした「かなり安い年貢」

実はここが信長施策の真骨頂だ。当時の農民は領主だけではなく、近隣の有力者などに何重にも税を取られることがあった。信長はそれを禁止し、農民には原則として年貢のほかに、重い税を課してはならないとしたのだ。

では信長は、年貢をどの程度、課していたのだろうか?

明確な記録は残っていないが、永禄11(1568)年、近江の六角氏領を新たに領有した際、収穫高の3分の1を年貢とするように定めている。この地域だけ特別に税を安くするはずはないので、信長領全体も大体この数値の前後だったと考えられる。

収穫高の3分の1とは、かなり少ない。江戸時代の年貢は、5分5民、4部6民などと言われ、収穫高の4割から5割が年貢として取られていた。また戦国時代は戦時だったので、江戸時代よりも年貢は重かったとされている。

そう考えると、信長領の年貢率3割は、かなり安い。これが信長の天下統一作業で優位に働いたと思われる。

太平記英勇伝・壹:小田上総介信長(織田信長)
太平記英勇伝・壹:小田上総介信長(織田信長)(写真=歌川芳幾/東京都立図書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

信長は、短期間で領土を拡大し続けてきた。これは、単に武力だけではできない。

領民の支持を得られなければ、領民に抵抗されたり逃亡されたりして、スムーズな領土拡大ができないからだ。

領民が潤って、人口が増え、領内が発展すれば税収も増える。信長の経済政策は、そういう好循環を生んでいたのだ。

ほかの戦国大名が行えなかった「実測検地」

信長は税制について、もう1つ画期的な政策を実行している。大掛かりな検地だ。

検地というと、豊臣秀吉が行った「太閤検地」が有名だが、信長はその前に同様のことを行っていたのである。検地とは、農地の広さや土地柄を調べて、米の収穫量を測り、年貢の基準を策定する作業である。それが、なぜ画期的だったのか?

後世の感覚から言えば、領主は自国の農地に関しては、自由に検地できそうな気がするが、決してそうではなかった。農民は隠し田などを持っていたりしたので、検地を非常に嫌がったのである。

検地をすれば、農民が抵抗し、一揆などを起こされる危険もあった。そのため、戦国武将たちもなかなか検地はできなかったのだ。

検地をしたとしても「差出検地」といって、農民側が自分で測った数値を報告するだけ、というものがほとんどだった。北条早雲が、戦国大名の中で先駆けて検地を行ったのだが、早雲の検地はこの「差出検地」だったのだ。

しかし、信長は「差出検地」ではなく「実測検地」であり、しかもかなり細かい検地をしていたことがわかっている。近年の研究では、縄入れ(実測)による検地を行っていたことが明らかになっているのだ(網野善彦、石井進、稲垣康彦、永原慶二編『講座 日本荘園史』吉川弘文館)。

たとえば、天正5(1577)年、越前で行われた検地では、「歩」の単位までが報告されている。このような細かい数字まで出されているということは、実測されたものと推測されるのだ。これは信長以前の戦国大名にはないことである。

信長がこのような実効的な検地を行えたのは、信長の勢力がそれだけ強かったということであり、また一方では農民との信頼関係もあったということだと言える。