秀吉が家康討伐を中止した原因
徳川の人質差し出し拒否を受けて、秀吉は、来春(1586年2月)には出陣する意向を示していたが、思わぬ天災によって、目論みは潰える。その天災とは地震である。
天正13年11月29日の夜、近畿から東海・北陸を強い地震が襲ったのだ。天正地震と呼ばれるこの地震の規模は、マグニチュード7.9あるいは8.0とされ、畿内では建物が倒壊し、多数の死者が出る。この地震により、秀吉は出陣を延期したばかりか、家康を平和裡に懐柔する作戦に切り替える(家康の領国は被害をそれほど受けなかった)。家康と秀吉を仲介する役割を担ったのが、既に秀吉に降っていた織田信雄(織田信長の次男)であった。
天正14年(1586)1月27日、家康と信雄は岡崎で会見、家康は秀吉に和睦を請うことになる。信濃国衆(例えば小笠原貞慶)の徳川離反、重臣・石川数正の出奔、そのうえで、秀吉による討伐を受ければ、いずれはジリジリと負けていくことを、家康はよく見通していた。
だから、秀吉との和睦に舵を切ったのだ。
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