秀吉の更なる人質要求に家康は…

その数正が、更に人質を秀吉に差し出すべきと徳川家中で主張していた(数正は、秀吉との交渉役であった)。ちなみに、数正は自身の息子(嫡子の康長、次男の康勝)を於義伊(家康次男)と共に大坂へ人質に出しており、何も他の宿老だけに犠牲を負わせようとしているわけではなかった。

数正の心情は、更なる人質を出すなどして秀吉に臣従の意を示さなければ、いずれ秀吉は本格的に、そして大規模に徳川に攻勢をかけてくる、局所では徳川が勝利することもあろうが、長期戦にでもなれば、最終的には徳川方は敗れる。そうなれば、最悪の場合、主君(家康)は切腹、御家は瓦解してしまうかもしれない。そのような思いから、人質を出すことを主張していたと感じる。

秀吉方と交渉していた数正は、秀吉政権が日々隆盛を極めていくさまを肌身に感じていたに違いない。だからこそ、秀吉と全面対決することの不可を説き続けていたのだろう。だが、数正の願いも虚しく、徳川から新たな人質は出さないことが決定された(1585年10月28日)。

家中では対秀吉強硬論が強かった

家康が諸将を浜松城に集め、評定した結果であった。強硬論が幅をきかせ、数正の意見は採用されなかったといえよう。数正は徳川家中で孤立していたと思われる。何より、自らの融和路線が採用されなかったということは、今後の数正の出世にも影響してこよう。孤立し排斥され政治生命が断たれる可能性が高い。いや、生命まで絶たれることもありうる。同年11月13日、岡崎城の城代を務めていた数正は、突如、妻子と共に出奔。豊臣秀吉のもとに身を寄せるのである。その背景には、これまで述べてきたような事情があったと考えられる。

徳川家康三方ヶ原戦役画像
「徳川家康 三方ヶ原戦役画像」、1572年ごろ(画像=徳川美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

数正の裏切りに家康は緊急人事を

幼い頃から仕えてきた忠臣・数正の「裏切り」は、家康にとって、衝撃でもあり、打撃でもあった。数正出奔の翌日(14日)には、岡崎城に宿老の酒井忠次を入れている。家康も16日には、岡崎に赴いている。翌月には、本多重次が新・岡崎城代に任命された。

一方、秀吉のもとにはしった数正は、秀吉から一字を与えられ「吉輝」を名乗る。数正が徳川家に戻ることは二度となかった。秀吉に臣従した数正は、後の小田原攻めの功により、信濃国松本城を与えられる。そして、文禄元年(1592)に没するのであった。