複雑な違いを「わかりやすい記号」にする
日本社会でも、人種や、性別、出身地、あるいは宗教といった、さまざまな要因による「違い」がある。ただ、それらを一目で判断できる「記号」には乏しい。いろいろな要素が生み出す(とされる)「格差」もまた、可視化されにくいのではないか。
もう少し慎重に言えば、日本から見れば、そうしたいろいろな要素による「格差」は、見えやすい(ように感じる)。「あの国は、宗教対立があるから」、とか、「かの国では、人種差別がまだ残っているから」といったかたちで、納得しやすい。
これに対して、日本のなかから日本を見る場合は、当事者である以上、いろいろな「違い」が、まず見えにくい。その上、街中にホームレスがあふれてもいなければ、韓国のように「スペック稼ぎ」が常套手段になってもいない。すると、「東大卒」「Fラン」といった「学歴」をめぐる表現が、複雑な「違い」を、誰にでもわかるかのような記号に置き換える(ように見える)。
「学歴」がこれほど頻繁に取り沙汰され、ときに炎上するのは、社会における「格差」そのものというよりも、見えにくい「格差」を、大学名=偏差値という記号で、理解しやすくしているからではないか。
炎上騒動は私たちの社会を映す「鏡」
むろん、子どもの貧困率の高さをはじめとして、「格差」は至る所にある。もはや「総中流」とは言いがたい。
それでも、もしくは、それゆえにこそ、私たちは「学歴」という、見えやすく、それでいて、「格差」にどれぐらいつながっているのか、とらえがたい目印をめぐって、語り続けてきたし、いまも語っているのだろう。
メディア史家の佐藤卓己氏の近著『受験戦争のメディア史 無名戦士たちの合格体験記』の書名にある「受験戦争」が死語になるほどに、もはや競争は緩和されたものの、かえって、ますます、「学歴」(というよりも、大学入学試験の偏差値)による序列への注視は、強まっているのではないか。
大学の価値を偏差値だけで測る。それが問題なのは、わざわざ言うまでもない。けれども、偏差値という1つの数字で大学を並べたくなる誘惑は、wakatte.TVだけのものではない。私たちは、社会の「格差」を、できるだけ簡単な言葉で理解したい。「東大」「Fラン」といった、わかりやすさだけで、人の努力や能力、さらには人生までわかった気分に浸ろうとする。その意味では、wakatte.TVの炎上は、特殊な人たちの問題というよりも、私たち自身が「学歴」をどう見ているのかを映す鏡なのかもしれない。
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