飢えた町人に「犬を食え」
順調なキャリアに暗雲が立ちこめたのは、飢饉と米不足が引き金となって発生した天明の打ちこわし(一七八七)が原因だった。大衆の暴動が発生し、景漸は北町奉行として矢面に立たざるを得なくなった。
天明七年(一七八七)五月、景漸は「お救い米」(困窮者を救済するための応急施米)を支給してほしいと奉行所に願い出た町人の代表者たちに、「飢饉のときは昔は犬を食った。犬を食ったらいい」と暴言を吐いたというのである(『よしの冊子』)。
「犬を食え」発言が本当に景漸から発せられたものだったかは定かではないものの、北町奉行所が町人たちの数回にわたる嘆願に一切耳を傾けず、「何とかしのげ」というばかりだったのは事実らしい。
そう返答するしか他に方法がなかったのだろうが、しかし、大衆の怒りが頂点に達したところに奉行所がこんな冷たい対応をしては、混乱に拍車をかけるだけだ。もはや本当に景漸の失言だったかという真相の追求など、どうでも良く、「犬を食え」という言葉だけが無闇に拡散していった。
また、いざ打ちこわしが始まると、奉行所は鎮圧に何ら貢献できず、役立たずと嘲笑された。実戦部隊を率い平定に寄与したのは、江戸城を警備する「御手先組」の弓組頭・長谷川平蔵だった。
2度目の失言に、評価はガタ落ち
幕府の諜報組織である御庭番は、景漸に対して非常に厳しい報告をしたようだ。それによると、
・天明の打ちこわしでは特に曲淵景漸の評判が良くない
・北町奉行所の与力には景漸に対して騒動に備えるよう進言していた者もいたが、これを黙殺した
・陣頭指揮を執らず暴徒に接近すらしなかった(以上、『よしの冊子』)
実は景漸には大坂西町奉行だった明和五年(一七六八)、土地や家屋取引に正式な印や手数料を徴収する制度の導入をめぐって商人・町人が騒乱を起こした際、粗雑な対応に終始した前歴があった。大坂の町人代表が改善を願う訴状を提出したにもかかわらず、「おまえたちが互いに助け合えば済むこと」と、冷淡に叱りつけたという記録が残っている。
この態度が蒸し返されて、景漸なら「犬を食え」と言いそうだ、という噂につながってしまったとも考えられる。
どうも景漸には、非常時になると融通が利かなくなり、乱暴に口を滑らせる気質が見てとれる。
この結果、評価はガタ落ちとなった。
治水に尽くした知られざる功績
そして新たに老中首座となった松平定信は六月一日、景漸を奉行から解任し、江戸城西の丸の留守居役という閑職へ転任させたのである。
一方で、打ちこわしには逮捕者も出たが、景漸は彼らの処罰には寛大だった。首謀者には打首・獄門などの極刑もあり得るのが慣例だったのに、最も重い者でさえ遠島。死罪に処された者はいなかった。法制史研究者の間には、この慈悲深い処置をもっと評価すべきという意見もある。
また、松平定信も本音では景漸を評価していたらしく、翌年(天明八年/一七八八)には勘定奉行に任じている。
実際、景漸はさまざまな面で評価が高く、例えば隅田川の治水対策を担い、天明六年(一七八六)五月に河川工事を主導している。同年一月に起きた隅田川岸の大規模火災からの復興を目的としたもので、折しもこの二カ月後、大雨に見舞われ隅田川は決壊し、洪水が起きる。万一、景漸の主導による工事が始まっていなかったら、水害の被害はもっと甚大だったろう。
洪水後に隅田川の水位観測を綿密に行ない、防災に努めたのも景漸だった(『にほんのかわ』/日本河川開発調査会)。
景漸は七十二歳で、勘定奉行を退くことを自ら願い出た。十一代将軍・家斉は慰留したとされるが、翌年に円満退任。寛政十二年(一八〇〇)、七十六歳で世を去った。
非常事態には頼りなさを見せた町奉行だったが、責任感が強く実務には長けた男だった。
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