田沼意知の刺殺事件を裁く

景漸が北町奉行だった明和六〜天明七年は、そのまま田沼意次たぬまおきつぐが老中に君臨していた年代と重なる。元号でいえば宝暦・明和・安永・天明で、「田沼時代」と呼ばれた。

鈴木白華筆「田沼意次侯画像」
鈴木白華筆「田沼意次侯画像」(写真=牧之原市史料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

この時代の特徴は、幕府の財政難を解消すべく重商主義政策を推進し、株仲間(同業者組合を結成し、幕府や藩に冥加金=税を納める)も積極的に公認。また印旛沼の開発、貿易の拡大をはかり、貨幣経済の発展をもたらした点にある。

景漸は意次からの信任が厚かった人物で、意次の息子で、若年寄だった意知おきともが江戸城で刺殺された事件の事後処理をしている。大河ドラマ『べらぼう』でも描かれたのでご存じの方も多いだろうが、念のため概要を述べておく。

天明四年(一七八四)三月二十四日、将軍の警護を務める新番士の佐野政言さのまさことが、江戸城内で突然、意知に斬りかかった。意知は複数の傷を負い、股の傷は骨に達し、これが致命傷となって死亡した。

現場で取り押さえられた政言の身柄は北町奉行所、その後は小伝馬町の牢屋敷に移された。取り調べを担当したのが評定所の大目付・目付、そして景漸の三人だった。

評定所の構成員は、もっと多い。しかし刺殺事件の現場には評定所の重役もおり、殺害を止められなかった彼らも処罰の対象となったため、上記の三人で審議する他なかったのである。

20人超を処罰した奉行の苦悩

政言は、そもそも佐野家の家臣筋にあたる田沼家が、佐野から家系図を借りて出自を捏造しようとし、家系図の返却を求めても応じなかったなど、積もる遺恨があったと述べたという。

意知が死ぬと政言の取り調べは打ち切りとなった。被害者が死亡した時点で詮議を取りやめ、加害者が「乱心した」として切腹させるのが、当時の慣例だったからだ。政言は四月三日、牢屋敷の庭で自刃して果てた。

景漸が苦労したのは、ここからだ。刺殺現場にいながら暴挙を止められなかった者たちを処分しなければならなかった。その面々は、政言の取り締まりから外された大目付二人、老中を補佐する若年寄、南町奉行、勘定奉行をはじめ、大名・旗本を加えた総勢二十人以上に及び、それぞれに解任や一定期間の職務停止が言い渡された。

息子を殺害された田沼意次は、信頼を置く景漸に厳重な処罰を命じ、景漸もまた意次の私情を廃し、公正に幕閣たちを処罰したのである。