冬ごもり前に行動するヒグマの影
翌年の春になって、この逓送人の遺体が発見された。
客年十一月十五日、増毛郵便局脚夫の浜益よりの帰路、濃昼、増毛の両山道において吹雪に斃れたのか、熊に攫殺されたのか、行方が知れなかったが、(中略)先頃、雪解けに際し、増毛山道の三里〔約十二キロ〕ほど脇道において右脚夫の死骸を発見したが、その携帯する郵便物にはまったく損害を蒙らなかったという(「北海道毎日新聞」明治21年6月3日)
遭難した時期が、ヒグマの冬ごもり直前の11月中旬なので、襲われた可能性は確かにある。
記事によれば、遭難した脚夫は増毛郵便局と茂生郵便局(現在の浜益郵便局)を往復していたが、暴風雪のため群別村で12日間も足止めされ、再度出立して増毛山道で遭難したのだという。
次の事件は翌年、浜益村から約30キロ北の箸別で発生した。
六月二十三日、増毛村の天谷某の雇人が、ハシベツ川の上流およそ一里〔約四キロ〕ばかりのところで、突然熊に出会い、掴つかみ殺されてしまった。その翌二十四日、増毛警察署から巡査二名と猟夫五人が天谷方の雇人二十人程と熊退治に出かけ、首尾よく銃殺した。増毛郡役所で皮を剥ぐと、見物人が三、四百人もあったという(「函館新聞」明治二十二年七月九日)
森鴎外の妹も「心細い思い」をした
この事件については、別の資料でも確認できる。
明治二十二年八月二十日、この道(増毛山道)を通ったのが我国解剖学の先駆者、小金井良精と喜美子(森鴎外の妹で随筆家)夫妻である。時化のため増毛から船の便がなくなり、やむなく陸行することになったもので、次のような心細い思いをしたようである。
(前略)道の所々に大きな石を掘り越し、また草の根を掘り返してあるのを、馬追いは指さして、「これはみな熊のしわざで、石の下の蟻を食い、また草の根を食むのです。だからこの道は険しいのみならず、熊が常に出るために、このように人が少ないのです。十日ばかりさきにも、一人命を失いました」(『るもい地方の歴史探訪』前掲)
〈十日ばかりさき〉とあるが、前記〈天谷某の雇人〉が喰い殺された事件を指していることは疑いがない。
「ハシベツ川」は、地図で見るとわかるとおり、増毛山道の起点である別苅の東にある。小金井夫妻は増毛村で同事件の噂を聞き、おののきながら浜益村に向けて南下したわけだが、人喰い熊は、すでに増毛山道を通過した後であった。もしも2カ月も前であれば、夫妻も襲われていたかもしれない。
ところで前掲記事によれば、加害熊は翌日になって〈首尾よく銃殺〉されたことになっている。
しかし、この個体は本命ではなかった。

