クマの腹の中から出てきたのは…
〈ノプ沢〉とは、「信砂」のことで、正しくは「信砂山中」である。
信砂集落と阿分集落はわずか4キロの距離なので、2カ月足らずの間に、増毛近郊で、婦女が2人も喰い殺され、神主まで襲われたのである。
地元では大々的な熊狩りが行なわれたことだろう。
しかし加害熊は、ついに討ち取られなかった。
そして翌年、阿分集落からさらに30キロ北の鬼鹿村で、新たな人喰い熊事件が発生した。
赤坂久兵衛方の雇人高橋萬太郎(二十九)は同じ国者の久遠與八と蕗とりに、去る十二日午後三時ころから、鬼鹿より一里〔約四キロ〕ばかりの沢に赴いたが、牡熊に出遭い、逃げ道なくて哀れはかなくも高橋萬太郎は喰い殺されたのを、同行した與八は生きた心地なく久兵衛方に馳せ帰り、ことの次第を物語ると、それでは萬太郎の仇、かの大熊を打ち取ってやろうと、四十余人の若者が、手に得物、槍鉄砲などを携えて押し出し、遂に二ッ玉にて打ち殺し、鬼鹿村の戸長役場に引きずって来て、巡査立ち会いの上、熊の腹を引き裂いてみると、無残にも萬太郎の手と片腹半分ばかり、はらわたとともにあったので、久兵衛方では、懇ろに葬った(「北海道毎日新聞」明治24年6月17日)
捕獲された個体の腹から被害者の体の一部が出たことから、加害熊であることは疑いがない。増毛山道を北上してきた稀代の人喰い熊は、ついに悪運尽きて討ち取られたのであった。
加害熊の「捕食原理」とは
ここで筆者の仮説をもとに、一連の事件を順を追って整理してみよう。
明治初期、石狩平野に入植者が急増すると、安穏と暮らしていた野生動物は四散した。増毛山地を縄張りとするヒグマもまた、その影響を受けて、「玉突き」的に北に追いやられた。
本件の加害熊も、そのようなオス熊であったと想像される。
増毛山地を北上するうち、加害熊は郵便脚夫に出くわし、これを襲って喰い殺した。
この経験により、彼の捕食原理は「成人男性」が最上位に位置づけられた。
そのために、次に彼が襲ったのも、箸別川で見つけた「天谷某の雇人」つまり成人男性であった(ヒグマが一度味をしめた嗜好をしつこく求めることは、専門家も指摘するところで、男性ばかりを喰った例としては、明治11年の「札幌丘珠事件」がある。一般には死者3名が定説だが、筆者は4名であることを確認した)。
加害熊はさらに北上し、信砂集落に達する。ここでも成人男性、つまり齋藤銀吾を襲おうとした。しかし、巧みに逃げられてしまい、代わりに襲ったのが、銀吾の妻テツであった。
これにより彼の嗜好は「成人男性」から「成人女性」に変化した。
そして次に狙われたのが、青物採取に山に入った、若い婦人ヨテであった。

