忠相が下した判決――死罪、島流し、追放
お熊と婿は不仲で、かつ、お熊は他の男と不義密通していたのだが、経営が厳しい白子屋は婿の実家から援助を受けていたため、おいそれと離縁できない。そこで殺されてしまえば、婿の実家も離縁はやむなしと納得する――そう計画したお熊と母親が共謀したというのが真相だった。
お熊と不倫相手、実行犯の女中は死罪、母は島流し、お熊の父親である白子屋主人は監督不行届で江戸から追放と、厳しく罰せられた。この判決を下したのが忠相である。凶悪犯は厳罰に処す、忠相の姿勢が見て取れる。
ただしこの事件はしばらくの間、世間から軽んじられた形跡がある。大岡政談の逸話を集めた明和六年(一七六九)の『隠秘録』から、唯一史実であるはずの白子屋お熊事件が漏れているのである。理由はわからない。
それがやがて、事件が芝居などの題材として脚色され、世間に知れ渡るようになると、忠相が下した判決として注目されることになるのである。
火あぶり直前の無実の男を救う
では、忠相が名奉行と謳われるに至る事績がまったくなかったのかというと、そんなことはない。放火の罪で火あぶりに処される直前の無実の者を救った、「伝兵衛事件」(享保十年/一七二五)がある。
江戸で火災が発生した。火付盗賊改方は目明し(密偵)の報告を受け、伝兵衛という男を放火犯として捕らえた。伝兵衛は犯行を自白し、北町奉行の諏訪頼篤が火あぶりの刑を言い渡した。
刑が執行されるまでの間、伝兵衛は人通りの多い場所に晒し者となっていた。すると、「放火の日に伝兵衛と一緒にいた」と、声をあげる者が現れた。忠相はそれを人づてに耳にする。
裁判は南と北のふたつの奉行所が毎月交互に行っており、この月は北町奉行所の担当で、南町奉行の忠相に権限はない。それでも越権行為を承知で、忠相は「再吟味」、つまり取り調べのやり直しを北町奉行所に忠告した。
諏訪頼篤が伝兵衛に改めて問いただすと、「やっていない、火付盗賊改方の取り調べが厳しかったので、認めるしかなかった」と吐露。この結果、伝兵衛は無罪放免となり、代わりに火盗改が出仕停止(停職)、目明しが死罪となった。
江戸庶民は忠相を称賛した。同時に奉行所も「冤罪」の教訓とせざるを得ず、以後、無実の罪人は出さないという意識が強くなったといわれている。
忠相の決断が一人の男の命を救ったのである。
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