母の愛を見抜いた名裁きにも元ネタ
なお、『板倉政要』より前には見られないのかというと、実は元禄二年(一六八九)、浮世草子の作家・井原西鶴が書いた作品『本朝桜陰比事』にも、似たような話が載っている。『本朝桜陰比事』は中国の南宋(一二〜一三世紀)の時代に編纂された判例集『棠陰比事』に倣った、裁判を題材にした短編集だ。つまり、そもそもは中国伝来の判例、というか故事が元ネタだった可能性がある。
娘の親権をめぐって実母と継母が争い、奉行所に訴え出た、「実母・継母の詮議」も有名だ。
「二人でその子の両手を引き合い、勝った方の子とせよ」
忠相はそう指示した。二人は互いに、力の限り娘の手を引っ張った。娘はたまらず「痛い」と叫んだ。すると片方が手を放す。
「母なら娘の痛みを察して手を放す」
と忠相は言い渡した。手を放したのは実母だった。忠相は彼女に親権を与えた――。
実はこの話も中国の『棠陰比事』に元ネタがあり、それを典拠として大岡政談に再編集されたことがわかっている。そもそもはこんな内容だった。
前漢(紀元前二〇六年〜)の頃、ある兄弟の二人の妻が同じ時期に妊娠し、兄嫁は死産、弟嫁は無事に出産した。ところが兄嫁は子が死んだことをずっと隠しており、三年にわたって弟嫁の子を自分の子だと主張し、裁判に訴えた。
そこで裁判官は、庭で二人の妻に子を奪い合わせた。兄嫁は猛々しく、子の手足が千切れんばかりに引っ張り、弟嫁は手足が傷つくのを悲しんだ。
「兄嫁よ、おまえはその子を盗もうとしている。子の手足が損なわれることを悲しむ弟嫁の心は、にわかに作り出せるものではない。実の母が弟嫁であることは明らか」
――裁判官はそう判決を下し、兄嫁を罰した。
忠相が裁いた事件はたった1件
約八十例もある「大岡政談」のうち、忠相の南町奉行在任中に起きたと確認できるのは実のところ三例だけである。しかもそのうち、吉宗のご落胤(身分の低い女性に産ませた私生児)を名乗る山伏・天一坊の虚言を見抜き成敗した「天一坊事件」と、奉公していた医師を殺害した直助という男を裁いた「直助事件」の二例に、忠相は関わっていないことがわかっている。
天一坊が実在し、将軍のご落胤を称して死罪となった事件は徳川幕府の正史『徳川実紀』に載っているが、裁いたのは勘定奉行・稲生正武で、忠相ではない。
「直助事件」の裁判も、忠相が統括する南町奉行所とは違う、もう一つの北町奉行所の中山時春によるもので、忠相は関与していない。
唯一、忠相が裁いたのが、『享保通鑑』に所収されている「白子屋お熊事件」(享保十二年/一七二七)である。
材木商の白子屋の娘・お熊の婿が、女中に剃刀で襲われた。婿は一命を取り留めたが、女中の動機が不明。南町奉行所が捜査したところ、お熊とその母が女中に指示していたことが判明した。

