「ラヴ上等」にある意外な営み
では、なぜTCが有用なのか。その理由を一つに絞ることはできないが、毛利真弓氏の『刑務所に回復共同体をつくる』(青土社)には、その仕組みと受刑者に起こる変化が様々な角度から記されている。
そして興味深いのは、『ラヴ上等』にも、TCを思わせる営みが見られることだ。そのなかから、本稿の問題意識とも重なるものを一つ挙げるなら、自分の過去を語り、他者の過去を知ることによって、自分を縛ってきた「呪い」に気づいていくというプロセスだ。
自分がどのような価値観の下で育ってきたのかは、灯台下暗しよろしく、本人にはかえって見えにくい。が、共同体の別のメンバーが語る過去であれば、どのような環境がその人の価値観を形づくったのか、比較的よく見えるだろう。
その話の一部が自分の経験と重なったとき、他者を縛っていた「呪い」が、自分にもかけられていることに気づけるからだ。
ただし、呪いを認識すれば、それだけで回復できるわけではない。毛利氏は次のように書いている。
虐待の痛みの感覚を取り戻したり、生い立ちの中でかかっていた呪いに気づいたりすると、それだけで人生の謎が解け視野が広がり、新しい生き方を選択できる人もいる。しかし、実はその先には自己憐憫という落とし穴がある。こうだったから、ああだったからと他者に責任を擦りつけ、かわいそうな自分というストーリーに埋没して自分の人生を選択する責任を放棄してしまうということだ。
(毛利真弓著『刑務所に回復共同体をつくる』青土社、2024年)
自己憐憫と心からの後悔
ここで重要なのは、過酷な生い立ちを語ることによって、自分の犯罪を免責するのではないという点だ。
自分が被害を受けてきた事実を理解したうえで、それを理由に加害の責任から逃れる「自己憐憫」と、自分が他者を傷つけた事実を引き受ける「心からの後悔」とを区別しなければならない。しかも本書が指摘するとおり、その区別は非常に難しいため、自己憐憫の罠に陥る危険がある。
そう考えれば、過酷な生い立ちを語ることが、加害者としての責任を薄めることにつながるのではないかという警戒自体は理解できる。もしかすると、自己憐憫の匂いを感じ取り批判を加えたSNS上のユーザーもいたのかもしれない。
しかし、自己憐憫と心からの後悔を区別するのは、決して容易ではない。まして、短く切り取られた映像だけを見た第三者が、出演者の内面を容易に判定できるはずもない。
自己憐憫ではないかと疑うことと、自己憐憫だと断定して人格を攻撃することは全く別である。実際、SNS上には批判の範囲を明らかに逸脱した、人格攻撃を含む誹謗中傷も確認されたが、それが許されないことは言うまでもない。

