“F1レーサー”を目指さなかったワケ

もっとも、テレビの中のF1に心を奪われる前から、小松少年は無類のバイク好きだった。高校時代はカワサキの中型バイクZ400FX(通称“フェックス”)を乗り回し、バイク店でもアルバイトをしていた。ちょっとした縁もあった。

「隣の中学とはよく喧嘩をしていました。その中学校で同学年にいたのが阿部典史、のちの『ノリック』です」

阿部はのちに、オートバイにおけるF1にあたるロードレース世界選手権(現在のMotoGPの前身)で戦う日本人ライダーになる。17歳で国内最高峰クラスの王者となり、翌1994年、18歳で鈴鹿の世界戦にスポット参戦。世界王者たちを従えて先頭を走り、残り3周で転倒するまで日本中を沸かせた。

世界の舞台での勝利は通算3回。海外でも「ノリック」の愛称で親しまれたが、2007年10月、川崎市の路上でトラックと衝突し、32歳で亡くなっている。告別式には3000人を超える人が詰めかけた。

もっとも当時の阿部は、まだ地元の噂の的でしかない。それでも小松は、自分にその才能がないことを早くから痛感していた。

「普通、子供がレースを見たら『ドライバーになりたい』と思うはず。なぜ私は『マシンを作りたい』と思ったのか。自分でバイクに乗っていて、下手なのがわかっていたからです」

乗り手としての自分を見切り、「作る側」に回る。エンジニアの道を選ぶ原点は、この頃すでに芽生えていた。

「英語を聞き取るだけで精いっぱい」

1994年、高校卒業と同時に小松は単身イギリスへ渡る。18歳、英語はほとんど話せない。なぜ、海外で学ぶことを選んだのだろうか。

「世界に出て通用する仕事がしたい」と渡英当時を振り返る小松代表
撮影=プレジデントオンライン編集部
「世界に出て通用する仕事がしたい」と渡英当時を振り返る小松代表

「おそらく、ベートーヴェン研究者だった父の影響だと思うのですが、世界に出て通用する仕事がしたい。純粋な実力勝負の世界に行きたい。それが最大の動機でした」

渡英資金の内訳を尋ねると、答えは実に地に足のついたものだった。世田谷区や東京都の留学生支援資金などを活用し、残りはアルバイトの貯金だった。

バイト先は自由が丘のメキシコ料理店。母親の知人が営む店で、当初は「うちは大学生でも大して仕事できないから、高校生なんかできるのかしら」と渋られたが、そこは如才なくこなした。校則ではアルバイト禁止だったが、そんなことは意に介さなかった。さらに当時の愛車だったKAWASAKI Z400FXを甲州街道で八王子まで駆り、バイク店でも掛け持ちをしていた。

渡英直後、小松は英語学校で思わぬ幸運に恵まれる。本来は初級クラスに入るはずが、定員オーバーのため中級クラスに回された。周囲はスイスから来た銀行員など、流暢に英語を操る猛者ばかり。

「もし、日本人が多い初級クラスに入っていたら、おそらく語学力は全く伸びなかったと思います」――結果的にこの事故が、語学力を一気に押し上げた。