社会学者が見た「現代の鳥獣戯画」
「ちいかわ」が、これだけ私たちを惹きつけるのは、キャラクターが何かを象徴するのではなく、ただ存在して動き回るからではないか。ただ眺めているだけで楽しい。その姿が「鳥獣戯画」の現代版だからではないか。その名の通り「鳥獣」たちが「戯れる」その「画」を見るところに、私たちは理由のない楽しさを覚えているのではないか。
アニメ映画としての作家性や、何かの主張を、「ちいかわ」から引き出すのは難しい。「なんか小さくてかわいい」キャラクターたちが遊び回る。その構図自体が、私たちに、えもいわれぬ快楽をもたらすのではないか。
まんが原作者の大塚英志氏は、こうした「まんが・アニメ文化伝統起源説」に異を唱えてきた。私は、ここで「ちいかわ」の起源が「鳥獣戯画」にある、と言いたいわけではない。それよりも、もっとずっとシンプルで、門外漢の見立てに過ぎない。作り込まれたキャラクターが、わちゃわちゃと遊んでいる、その微笑ましさが、「鳥獣戯画」の軽さに似ている、と指摘したいだけなのである。
何より、まさしく私のこの文章のような解釈というか批評というか、考察にそぐわないところにも、「ちいかわ」の魅力がある。「社会学的」な分析や「メディア論的」な解説といった、さまざまな批評や考察を、ゆるやかに拒絶するというか、すり抜ける、そこに「ちいかわ」の魅力があり、また、ヒットの秘訣があるのだろう。
「考察ブーム」のアンチテーゼである
社会学者は、つい流行現象から、現代社会を解説しようとする欲望を抑えきれなくなる。メディア論者もまた、さまざまな媒体の関係を解釈したくなる。的を射ている場合もあるのかもしれないけれども、往々にして、というか、ほぼ全てが後出しジャンケンである。
仮に「ヒットの秘訣」がわかるのなら、その通りに作品を発表すれば良いのであり、それができないから、誰もが模索するしかない。
「ちいかわ」から「教訓」をあえて得ようとするのなら、それは、こうした解釈や批評、考察といった後付けに汲々とするよりも、もっと純粋に作品の世界に浸れば良い、という教えではないか。
レビューがあふれる世界のなかで、私(たち)が忘れがちな「教訓」が、ここにあるからこそ、「考えすぎずに楽しむ」という体験そのものが、いま新鮮なのかもしれない。だから今日もまた、多くの人が「ちいかわ」に会うため劇場へ向かうのである。
実際、上映終了後の劇場では、小学生ぐらいの子供と、その親の「この映画、わかった?」との会話を耳にした。親世代にとっては「浅い」と思いがちな作品は、子どもたちにとっては映画鑑賞体験の入り口として、ちょうど良い。
幅広い世代が肩肘張らずに見られる作品は、「考察ブーム」とささやかれる昨今の風潮へのアンチテーゼでもあり、だからこそ、多くの人を引き寄せ続けるに違いない。

