人気絶頂の中、紅白を辞退

ピンク・レディーの人気は頂点を極めた。CM出演も増え、街にはピンク・レディーのタイアップ商品があふれ、子どもたちは皆ピンク・レディーになりきって歌い踊った。まだ家庭用ビデオデッキの普及以前で、ピンク・レディーの新曲が出ると、雑誌などに振り付けの分解写真や解説が載った。

1978年には「サウスポー」で日本歌謡大賞、そして「UFO」で日本レコード大賞をダブル受賞。その前年の1977年には「NHK紅白歌合戦」にも初出場し、「ウォンテッド(指名手配)」を歌っている。

東京都渋谷区にあるNHKホール(2007年撮影)
東京都渋谷区にあるNHKホール(2007年撮影)(写真=Chiether/CC-BY-SA-2.1-JP/Wikimedia Commons

ところがその絶頂期にひとつの“事件”が起こる。

1978年は人気、レコード売上の面で見ても圧倒的。2年連続の「紅白」出場も確実だった。しかし、なんとピンク・レディーの側から出場を辞退したのである。

『紅白』の権威がまだまだ健在だった当時である。辞退だけでも衝撃だったが、しかもピンク・レディーは大晦日、「紅白」の裏番組に出ることを発表する。

「ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分‼」と題された日本テレビの番組は、目の不自由な子どもたちのためのチャリティが目的のもの。ピンク・レディーが子どもたちに絶大な人気を誇っていたこと、そして同じ年に「愛は地球を救う 24時間テレビ」が始まっていたこともあった。

海外での意外な評価

番組は、ピンク・レディーをメインに芸能人やスポーツ選手がゲストで登場し、歌あり笑いありのステージを新宿コマ劇場から生放送するというもの。当時は日本レコード大賞も大晦日の放送で、「UFO」で大賞を受賞したピンク・レディーが急いでコマ劇場に駆けつけるという『紅白』のお株を奪う場面もあった。

とはいえ、当時の『紅白』の視聴率はまだ驚異的なもの。1978年の視聴率も72.2%(関東地区世帯視聴率。ビデオリサーチ調べ。以下同じ)を記録した。対するピンク・レディーの番組は8.2%とはるか及ばず。この出来事が、翌1979年以降の人気の失速の一因ともされる。

そしてもうひとつ、忘れられがちだが興味深いのは、ピンク・レディーが本格的な海外進出によって一定の成果を収めた事実である。

1978年のラスベガス公演を経た1979年5月、ピンク・レディーのアメリカでのデビューシングル「Kiss In The Dark」が発売された。阿久・都倉コンビではなく外国人がつくった曲はディスコ調で、アメリカ人の嗜好を考慮してか、大人びたセクシーさを強調したものになっている。

この「Kiss In The Dark」は、「ビルボードHOT100」で最高位37位を記録。日本人歌手が同チャートで40位以内に入ったのは、1963年に1位を獲得した坂本九の「SUKIYAKI(上を向いて歩こう)」以来のことだった。そこまでの大ヒットとはいかないが、十分ヒットしたと言っていいだろう。