工場長を務めていた親戚の指導の下、刃をゼロから作り始めたものの、当然、最初からうまくはいかない。どのような苦労があったのだろうか。
「責任の重さを感じました。刃の出来次第で大量に不良品が出るわけですよ。刃を作るための材料を投入すると、一度に1万5000〜6000本近くの刃ができるんですね。そのすべてに対して責任を負わなければなりません。そして、中島重久堂の看板を背負うわけですから、これが強烈なプレッシャーでしたね」
「お前、準備しとけよ」
現に、何度か大量の刃を無駄にしてしまったことがある。また、廃棄するまではいかずとも、製造過程において良規氏からの厳しい指摘が多々あった。
「工場にいる叔父から金曜日の晩に電話がかかってくるんですよ。『どないしたんですか?』と聞くと、『お前な、こんなやり方で刃が作れると思ってんのか。今調整してるから』と言って、ガチャンと電話が切れるわけです。すぐに工場へ飛んでいき、夜中0時ごろまで指導を受けたことが数回ありました。そういう経験をして、どうすればうまく刃を作れるかを理解するまで半年はかかりましたね。理解してようやくスタートラインに立てたという感じです」
それから数年が経ち、仕事も板についてきたころ、良規氏から突然、驚くべき宣言があった。
「リーマンショックの翌年ですわ。1月に叔父が『わし60歳やから、今年誕生日が来たら辞めるからな。お前、準備しとけよ』と言われまして。さらに、会社の帳簿を見ると、今までにない悪い売り上げで……。それに対して叔父は、『今がどん底やから、後は上がっていくだけや。(社長を)やれるんやったら、やったらええで』と。叔父は誕生日が2月末だったので、3月には退職して、そこから社長は私ですわ」
こうして2009年春、中島社長が3代目として代表に就任。コストを抑えるために、分散していた拠点を集約。大阪市平野区にあった本社および工場を、元々は第2工場だった現在の場所に統合して再起を図った。逆風の中での船出だった。
なぜ鉛筆削りで生き残れたのか
ここで疑問が浮かぶ。市場が低迷し続ける中にあって、なぜ中島重久堂は鉛筆削りの専業メーカーとして生き残れたのか。最大の武器は、刃物の精度の高さだった。これは2代目である良規氏の時代に磨き上げたものだという。
「1970年代前半、叔父が技術革新を起こしました。独自の切れ味によって軽く薄く削れる鉛筆削りを開発し、かつ大量に生産できる体制を確立したのです。そこから大手文具メーカーへの販路がより広がりました」
従来、鉛筆削りはドイツ製が有名で、当時の国内文具メーカーはドイツから輸入していた。そこに中島重久堂の商品が割って入る格好になった。ドイツ製と比べても劣らない品質で、さらに日本製で安価という点が評価され、メーカーに選ばれるようになっていった。

