ただし、これが明暗を分けることになった。進出した企業はその後、軒並み撤退。それは、鉛筆削りが以前ほど売れなくなったことに加えて、大量生産に対応できなかったからだという。

「戻ってきた文具メーカーに聞くと、無理やったと。ファーストロットは見合うレベルで作ってくるが、2回目、3回目は製品検査が大変やったと。現地での製造は品質に大きな問題がありました」

とはいえ、日本でものづくりを続けていた中島重久堂が勝ち組だったというわけではなく、市場はどんどんシュリンクしていった。そうした真っ只中、中島社長は中島重久堂に入社したのである。

祖父の遺言、そして叔父の突然の退社

既に述べたように、中島重久堂は中島社長の祖父が立ち上げ、1981年に2代目としてその末っ子、中島良規氏(編註:中島社長の叔父)が継いでいた。一方、良規氏の兄である中島社長の父は損害保険代理店の事業を興していたため、中島社長もその会社で営業マンとして働いていた。

では、なぜそこから中島重久堂へ転職することになったのか。それは祖父の“遺言”だった。

「30年くらい前ですね。祖父が亡くなる直前、この会社を、中島重久堂を何とか継いでやってくれと言われたんですよ。当時よく病院へ面会に行っていたわけですが、ある日、病床で私にポロっとね、頼むと。お前しかおらんからと」

そのことを父に相談すると、特に反対もなかった。なぜなら損害保険代理店では中島社長の兄弟も勤めていたため、人手は足りていた。そこで良規氏に会社を継ぐと伝えたところ、「お前は無理や」と即答されたのである。

「ものづくりは足し算、営業は掛け算。ものづくりの段取りと、営業の仕事のやり方はまったく違うから、お前には無理やと明確に言われまして」

一方で、良規氏なりの気遣いもあった。

「祖父が亡くなったら自分の代でこの会社を畳んでもいいと、叔父(編註:2代目、叔父の良規氏)はよく話していました。彼は独身で後継者もいませんでしたし、苦労して鉛筆削りの事業を築いたから、もう十分だろうと。ものづくりの苦しさを私に背負わせるのは大変だと感じていたようです」

刃をゼロから作り始めたが…

その時は中島社長も「叔父さんの言う通りやな」と腑に落ちたものの、やはり祖父の代から長く続いた会社を途絶えさせたくない、そこで働く従業員を守りたいという思いが上回った。その後、何度も良規氏の元へ行き、最終的には継ぐのではなく、あくまでも社員として雇用してほしいということで納得してもらった。2005年のことである。

工場内の様子
筆者撮影
工場内の様子

中島重久堂に入社するも、ものづくりは素人同然だ。良規氏から最初に課せられた仕事は、鉛筆けずりの刃を作ることだった。

「鉛筆けずりの部品は、主にプラスチックの本体と刃で、当社はこれを内製化しています。プラスチックの成形に関しては、叔父がまだ現役で動いていて、これは俺がやっておくからいいと。後でも成形を学ぶことはできるけど、刃物は鉛筆削りにおいて何よりも大事だから、先に仕事のやり方を覚えておけと言われました」