時代に翻弄される鉛筆削り
のっけから悲観的な話になってしまうが、鉛筆削りの市場はダウントレンドである。経済産業省のデータによると、鉛筆(色鉛筆含む)の国内生産量は2025年が約1億579万本で、前年比15%減。なお、ピーク時の1966年は約13億8542万本だった。こうした状況に伴い、鉛筆削りの販売数も減っている。
原因は言うまでもなく、デジタル化である。読者の皆さんは普段どのくらい手書きの文字を書いているだろうか。最近、鉛筆を使い、さらにはその芯を削ったことがあるだろうか。デジタル化に加えて、少子化の影響も大きく、過去には鉛筆のヘビーユーザーだった児童・生徒の数は減少の一途をたどっている。ただし、このような厳しい市場環境が中島重久堂の価値を相対的に高めていった。
同社は1933年、中島社長の祖父である中島幸雄氏が創業。ダクトロイド樹脂の製造方法を開発し、しばらくはペン軸や煙草パイプを作っていたが、1930年後半には小型鉛筆削りの生産を始めた。
戦後、樹脂成形機を開発して、プラスチックの小型鉛筆削りの製造を再開。そのころには鉛筆削りメーカーが全国十数社ほどあったという。高度経済成長期になると、鉛筆そのものの生産量は増えていく一方で、鉛筆削り自体は単価が下がるなどして稼げなくなった。
そもそも、一般の人たちは何個も鉛筆削りを買う必要はないからだ。これは商売にならないということで、鉛筆削り以外の樹脂成形、例えば、プラスチックの日用雑貨品などの領域に鞍替えしていった会社が増え、1970年代には小型鉛筆削りの専業メーカーは中島重久堂だけになったそうだ。
ところが、面白いもので、1970年代後半から1980年代になるといわゆる「団塊ジュニア世代」が小学生になるなどして鉛筆削りの需要が高まり、中島重久堂は多忙を極めた。その噂を聞きつけ、一事業として鉛筆削りの製造に手を出した中堅メーカーも出てきた。
「中国で作るから」と取引を中止された
1990年代になると、バブル経済が崩壊し、国内景気が低迷。より安価に作ろうと、文具メーカーは中国に生産拠点を移す。
「1990年代から2000年代初頭にかけて円高が続き、デフレも進行したことで、海外で安く作るために中国大陸へ進出する企業が多かったです」と中島社長は振り返る。OEM(相手先ブランドによる生産)供給するメーカーから取引を中止された。「中国で作るからいい」と。
しかし、そうした状況にあっても、中島重久堂は海外に出ていかなかった。なぜその判断をしたのかと尋ねると、中島社長は笑いながら次のように語る。
「もちろん、そういう話はありましたよ。でも、我々の企業規模だと、実際のところ、海外進出するほどの資本と人材もないから行けなかった」


