とにかく軍令部に反発した山本
【戸髙】山本五十六は、兵学校の同期で親友の堀悌吉(*3)が艦隊派に煙たがられて予備役に編入された瞬間、単純に軍令部が嫌いに、即ち艦隊派が嫌いになりました。山本の言動を見ていると、それが如実に表れています。
その後の山本は軍令部や艦隊派がまともなことを言っても反対しています。問答無用で軍令部が嫌なのです。近衛文麿ばりに「軍令部を対手とせず」と言うかのごとくです。たとえば、真珠湾攻撃も軍令部は反対でした。なぜなら日本の軍艦、ひいては海軍は、はるばるハワイまで出かけていって航空機で敵の基地を叩くという戦法を想定して作られてはいないからです。
当時の日本海軍が仮想敵国のアメリカと戦うに当たって想定していたのは、日本海海戦の時のように、近海で待ち受けて、はるばるやってきた敵艦隊と決戦するというものでした。それこそ明治以来延々と、何十年もそのための軍艦を造り、訓練をしてきたわけです。
ところが、真珠湾攻撃はそれまでの海軍のすべてをなげうって、付け焼き刃のような訓練をして行うしかない、誠に頼りない作戦でした。ですから、作戦に責任を持つ軍令部としては、当然了承できるわけがないのです。
なぜ真珠湾攻撃を実行したのか
【保阪】これまで想定したことがない作戦に大艦隊を使うことは、ありえないでしょうね。たしかに当時の現実を考慮に入れて見ると、山本五十六側の方が無理筋です。
【戸髙】あの時の山本五十六には、軍令部の言うことは絶対に聞きたくないという報復的な感情が潜在的にあるのです。だから、山本は一切退きませんでした。
真珠湾攻撃が必ずうまく行くとか、これからは航空主兵の時代だとか、そういった先見的な話ではなく、この一連の軍令部との攻防の中に横溢していたのは、山本の復讐心だったと思います。実際、真珠湾後のプランは連合艦隊にはないわけですから。先制攻撃の後のプランがないというのは、何を考えていたのだろうと思います。
【保阪】満洲事変の時の関東軍や、盧溝橋事件の時の陸軍にも、その後を見通した戦略はありませんでしたが、それと似ていますね。従来の山本五十六のイメージがかなり変わってきます。
(*3)堀悌吉 1883〜1959年。海軍中将。海兵三二期。戦艦「三笠」乗組(日露戦争)、戦艦「陸奥」艦長、第一戦隊司令官、鎮海要港部司令官代理など。予備役編入後、日本飛行機株式会社社長など実業家。山本五十六の唯一の親友。





