山本と考えが合わなかった人々

【大木】海軍の航空畑には山本五十六―大西瀧治郎たきじろう(*1)源田実げんだみのるというライン、派閥というほど強烈ではないものの、ある系列がありました。戦時中は、それが航空の主流派となったようです。

柴田武雄たけお(海・大佐)は、そこから距離があったので冷飯組で、やたらに現場に行かされた人です。昭和16(1941)年に第三航空隊副長兼飛行長でフィリピン、昭和18(1943)年に第二〇四航空隊司令でラバウル、昭和20(1945)年には第三一二航空隊司令で横須賀と、いつも最前線に送られていました。こういう人たちは、山本五十六のことをよく思っていません。

柴田さんが書いているのですが、雷撃訓練をすれば、魚雷はよく命中する。なぜなら、ぎりぎりまで接近して発射するからだ、と。しかし、実際の戦場では高角砲がバンバン撃ってくるのだから、とてもそんな近距離まで行くことはできない。もっと実戦に近づけた状況で訓練すべきで、魚雷発射も遠距離でやってみるべきだと、山本五十六に意見具申したそうです。ところが、山本は「そういう話は海軍の攻撃精神に反するから、二度と言うな」と怒りだしたそうです。

だから、海軍航空畑でもそういう人たちは「山本バンザイ」ではありません。それから、艦隊派といわれる人たちは、対米主戦派が多いので、戦後はあまり口にしなかったけれども、実は山本五十六のことが嫌いですね。

日本の戦艦大和(左)と武蔵(撮影=神田武夫)、1943年
日本の戦艦大和(左)と武蔵(撮影=神田武夫)、1943年(写真=U.S. Naval History and Heritage Command/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

実は海軍内でも嫌われていた?

【戸髙】山本五十六を巡ってそのような対立構造はたしかに生まれていました。私が親しく接した中では、戦艦大和やまと第三代艦長の松田千秋ちあき(*2)さんが、山本にいい印象を持っていませんでした。

戦艦大和の館長だった松田千秋
戦艦大和の館長だった松田千秋(写真=『艦長たちの太平洋戦争』より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

山本五十六は海軍次官から連合艦隊司令長官になっていますから、軍令部には基盤がない。戦前に海軍を開戦の方向に指導していたのは軍令部で、中でも軍令部作戦課の人たちが組織した第一委員会が勢力を持っていました。この人たちは皆、旧来からの艦隊派でしたから、山本五十六の考え方とは合わなかった。

【保阪】私も、軍令部畑の人が一様に山本批判をくり返すことに驚きました。

(*1)大西瀧治郎 1891〜1945年。海軍中将。海兵四〇期。航空本部教育部長、第一航空艦隊司令長官、軍令部次長など。終戦時に自決。著書『航空機増産 血闘の前線に応へん』(朝日新聞社、1944年)など。
(*2)松田千秋 1896〜1995年。海軍少将。海兵四四期。戦艦「大和」艦長、軍令部第一部参謀、第四航空戦隊司令官、横須賀航空隊司令など。