名だたる武将ほど離れていく
大和の筒井順慶も光秀を拒絶した。
光秀は重臣の藤田伝五を派遣し順慶を説得したが(『蓮成院記録』)、順慶はおそらく9日までに秀吉の大返しを知って出陣を中止し、10日に洞ヶ峠まで迎えに来ていた光秀と合流しなかった。出陣していながら洞ヶ峠で様子をうかがっていたという「順慶の日和見」は俗説で、今では光秀が出陣し軍事的に威嚇したが、順慶は決心を曲げなかったというのが有力だ。
摂津の中川清秀と高山右近も11日、中国から大返ししてきた秀吉と尼崎(兵庫県)で合流した。おそらくこの両名にも書状は送っていたと思われるが、ふたりとも光秀になびかず、そのまま羽柴軍の先鋒として山崎の戦いに挑んだ。
光秀に味方したのは、前述の武田元明や京極高次の他、近江の武将・阿閉貞征、丹波の並河易家・荒木氏綱ら、いずれも弱小勢力だった。
さらに12日付、紀州(和歌山県)雑賀の土豪・土橋重治宛て書状が現存する。「写」しか存在していなかったが原本が発見され、美濃加茂市民ミュージアムに所蔵されている。
土橋は室町幕府15代将軍・足利義昭と深い関係を持つ人物で、光秀が土橋を通じて義昭の上洛を働きかけていたように読める内容だった。そのためこの書状を根拠に、本能寺の変には義昭も何らかの形で関与していたのではないか、という説も浮上している。
だがよく読むと、「あなた(土橋)が義昭の上洛を望んでいるなら私も協力します」と返信しているに過ぎず、要はポスト信長の政権構想の中枢に義昭を据えるなら支援します(だから私の味方になりませんか?)と、連携を持ちかけているだけにも読めるのだ。
光秀に足りなかった戦略と準備
この書状の後、光秀と土橋がどのようなやりとりをしたかはわからない。何しろ光秀は13日の山崎の戦いに敗れ、その直後に歴史から姿を消すのだから、書状の本当の意図は不明のままといえよう。
光秀は信長の下で京の代官を務めた経験から、朝廷や寺社の協力なしには物事が進まないと知っていた。それゆえ貴族と僧侶への工作には長けていた。
しかし、時は自らが起こしたクーデターによる非常時だ。そんな有事の際には「治安維持を任せる」などといった大義名分より、差し当たっての敵に戦で勝つことが最優先事項だ。
大義名分など、勝てばいくらでも後付けできる。秀吉はそれを知っていたからこそ、迅速に兵を動かし、仲間を増やし、勝つことだけを考えた。
本能寺で信長を殺害するまでは成功したものの、その後については緻密な戦略があったわけでもなく、準備不足だった。ゆえに大義名分という「形」を優先せざるを得ず、後手を踏んだ。
一次史料は光秀の人物評を「策略を巡らせる野心家」等と書き残している(ルイス・フロイス『日本史』など)。知将であり、策士である。そんな男がなぜ、先を読めず、道を誤ったのだろうか。
参考図書
・柴裕之編著『図説 明智光秀』(戎光祥出版、2019年)
・歴史群像シリーズ『俊英 明智光秀』所収 平野明夫「本懐と落胆 光秀天変の二十九日」(学研、2002年)
・福島克彦『明智光秀 織田政権の司令塔』(中公新書、2020年)



