本能寺の変で織田信長を討った明智光秀だったが、その天下はわずか11日で終わりを告げた。京と近江を制圧し、朝廷や有力寺社への根回しも進めていたにもかかわらず、なぜ敗れたのか。江戸文化風俗研究家の小林明さんが光秀の敗因を読み解く――。

光秀の「空白の10日間」

天正10(1582)年6月2日未明、明智光秀は本能寺を急襲して織田信長を討ち果たした。だが、信長の首は発見できなかった。本能寺が紅蓮ぐれんの炎に包まれ焼けた遺骸が数多く転がっていたため、その中から信長を判別するのは不可能だったのだろう。また、二条新御所で討った嫡男・信忠のぶただの首も見つからなかった。

首級を上げたことを確認できない勝利だった。しかしとどまってはいられない。次の段階へと進むしか、光秀に道はなかった。差し当たっては、まず京の都と近江の確保だった。

光秀は、この「差し当たって」の目的に6月2日から11日までの10日間を費やす。そして朝廷から京の治安維持を任されるなど一定の成果はあげたものの、味方となってくれると予想していた有力諸将の懐柔に失敗する。

対してこの間、ライバルの羽柴秀吉は中国大返しを着々と進めていた。

いったい6月2日から11日まで、光秀はどこで、何をしていたのか。本稿はその日々を時系列に解説し、そこから導かれる光秀の敗因をあぶり出したいと思う。

『太平記英勇伝二十七 明智日向守光秀』
東京都立中央図書館特別文庫室所蔵
『太平記英勇伝二十七 明智日向守光秀』

光秀が進撃をあえて避けた土地

【6月2日その1】

光秀は京に残る織田勢の残党狩りを命じると、自らはまず近江に向かい、琵琶湖東岸にある信長の拠点・安土城を占拠しようとした。

実際、光秀と交流のあった公卿の吉田兼見よしだかねみは『兼見卿記』に、「(2日の)ひつじの刻(午後1〜3時頃)、粟田口あわたぐち(東海道の入り口)あたりまで乗馬して行き(安土に向かう途上の)光秀に対面した」と記している。

半面、摂津(大阪府北中部と兵庫県南東部)・大和(奈良県)・丹後(京都府北部)といった、光秀に関係深い地には進軍しなかった。各地に光秀と懇意にしていた諸将がいたからだ。

摂津には中川清秀なかがわきよひで高山右近たかやまうこん、大和には筒井順慶つついじゅんけい、丹後には細川藤孝ほそかわふじたかがいた。彼らの領地に兵を向けるのは、諸将を敵に回すリスクがあった。逆にいえば彼らには2日頃から書状を送り、「味方について欲しい」と依頼する工作を水面下で始めていたと考えられる(詳細は後述)。

なお、大坂の堺にいた徳川家康には討手を送ったようだが、危険を察知した家康は逃亡し(伊賀越え)、岡崎(愛知県岡崎市)へ帰還している。