わずか数時間で決した勝敗
【6月8〜11日】
8日、京へ向け安土を出発。同日中に先陣は山科(京都市山科区)に着陣し、翌9日に入京。
入京した光秀は吉田兼見邸を訪れ、正親町天皇と誠仁親王に銀子500枚、有力寺院にも100枚を贈っている。吉田は朝廷・寺社への取次を担う、頼りになる存在だったとわかる。
10日、河内方面(大阪府東部)に兵を進め洞ヶ峠に陣取り、筒井順慶の合流を待ったが、順慶は現れなかった。11日、洞ヶ峠から下鳥羽(京都市伏見区)に戻る(『兼見卿記』/詳細は後述)。
その後、秀吉に備えて山崎(京都府乙訓郡大山崎町)に陣を敷き、防衛ラインを整えた。秀吉が山崎から南西に12kmの富田に着いたのは翌日。戦いは小競り合いを経て13日夕刻に本格開戦し、わずか数時間で大勢が決まり、光秀は敗れる。
それでも細川は動かなかった
2日から11日までの10日間、光秀は各地の有力諸将に多くの書状を送ったと考えられる。すでに2日には美濃の西尾光教に宛てた書状が確認でき、そこには「信長父子の悪逆が天下の妨げになっていた」と書かれている(『武家事紀』)。味方に引き入れるつもりだったが、西尾は光秀を拒絶した。
また6月9日付、細川藤孝・忠興父子に宛てた有名な書状がある(「明智光秀覚条々」永青文庫所蔵)。内容は下記の通りだ。
藤孝と忠興が信長の死を悼んで元結を切ったのは、最初は腹が立ったが今は冷静に受け止めている。
そのうえで加勢してくれるなら摂津を与えよう。若狭や但馬が欲しいなら、それも良い。
そもそも今回の謀叛は忠興ら次世代の者たちを取り立てようとしたのが本意で、今後は忠興や私の長男の十五郎(光慶)らに譲って隠居するつもりだ。
「元結」とは髷を結ぶ紐である。藤孝と忠興は6月3日にこの紐を切った(俗世と縁を切ることを意味)。つまり光秀は3日までに細川親子に協力要請したが、ふたりは光秀と一切の関係を断つ決意を示していた。光秀は激怒し、翻意させようと使者を遣わしたが、細川の意志は固かった(細川家史『綿考輯録』)。
そこで9日付「明智光秀覚条々」で再度翻意を促したのだが、それでも細川は動かなかった。

