近江はこうして光秀の手に

【6月2日その2】

安土城を目指した光秀は、瀬田せた唐橋からはし(滋賀県大津市)で足止めを食う。信長の配下で瀬田城主だった山岡景隆やまおかかげたかが、橋を焼き落としていたためだ。

そこで橋の応急的な修復を命じ、光秀本人はいったん居城の坂本城(瀬田の唐橋から北へ約12km)へ戻った(『信長公記』『惟任謀叛記これとうむほんき』)。

【6月4日または5日】

4日に橋の修復が完了し進軍を再開。ただし『兼見卿記』には橋の復旧前に兵を進軍させた形跡も記されており、坂本城から船で琵琶湖を渡った可能性も指摘されている。いずれにせよ、同日には安土城に入った(ルイス・フロイス『日本史』、奈良興福寺の塔頭たっちゅう多聞院たもんいんの僧たちが残した記録『多聞院日記』)。