「法服を着た官僚」としての裁判官
日本の裁判所は、ことに1970年代以降には、権力補完機構としての性格を強める一方、権力チェック機構としてはあまり、あるいはほとんど機能してこなかったのであり、特に、最高裁判所については、その傾向が際立って強い。
海外の研究者からも、「日本の最高裁ほど違憲立法審査権の行使をためらう裁判所を世界中でほかに見出すことは困難」との評価さえ出ているほどなのである(デイヴィッド・S・ロー著、西川伸一訳『日本の最高裁を解剖する アメリカの研究者からみた日本の司法』〔現代人文社〕)。
このように、日本の裁判所は、裁判所のあるべき姿のみならず、日本の裁判所が到達しえたはずの裁判所の姿からも遠いといわざるをえないのだ。そして、そこには「構造的な問題」がある。
戦前からそのまま引き継がれた官僚裁判官システムでは、裁判官は、実際には、行政官僚と同様に階層的な「出世」の階段を上ってゆく「役人」なのであり、気質的にも、独立・中立の判断官というよりは「法服を着た官僚」としての性格が強くなる。
そして、最高裁判所は裁判官の人事と給与の決定権を一手に握っており、かつ、裁判官の異動の範囲は全国にまたがるから、相当自覚的に良心的でかつ勇気ある人間でない限り、意識的に、あるいは無意識のうちに(こちらの例のほうがずっと多い)、当事者の方よりも最高裁、裁判所当局の方を向く「忖度裁判官」となっていってしまいやすいのである。
「構造的な問題」を直視しない社会
以上のような日本の裁判所の問題が、個人の努力によっては左右しにくい部分の大きな「構造的な問題」であるのは、社会・人文科学を多少なりとも学んだことのある読者なら、理解されるのではないかと考える。
ところが、日本では、こうした「構造的な問題」から目をそらし、そのような立論に対し、「裁判官たる者、そのようなことがあってはならない。そういうことをいうのは、ためにする批判だ。いや、日本の裁判官は、決してそのような者ではない」といった感情的、情緒的な反応をする人々がかなり多いのだ。
たとえばこうした部分に、日本人と日本社会の根深い問題、つまり、「存在することが明らかな問題の本質から目をそらし、リアリズムをもってそれを直視しようとしないという態度」があるといえる。
以上は、私のよく知っている裁判所の例を引いたにすぎない。同様の傾向は、ほかの分野でもままみられるのだ。

