若い頃は「自分」しか書けなかった

【角田】たぶん私の中で、小説を書くこと=考えることなんですね。日常で考えたいこととは違うんです。それこそデビュー作から、家族って何、血縁である必要って何、みたいな疑問があって、それを考えたくて書いていた。書きながら考えても答えは結局出なくて、それには慣れてるんですけどね。そういう、小説を書かないと考えないことはかなりあって。なので私の場合、考えたいことがなくなった時が書けなくなる時だと思うんですよね。

【東畑】自己模倣に陥ったとおっしゃった時期は、ちゃんと考えることができなかったなという感覚なのですか?

【角田】純文学の雑誌で書いていたときは、年が若かったせいもあって「自分」しかないんですよ。当時、書くことで考えたいときは、自分の中を見て、一生懸命掘り出すみたいな感じだったんです。だけど、文体を変えてエンターテインメントを書くというときに同時に気づいちゃうのが、自分をこれ以上見てもなにも出てこないぞってことなんですね。行き詰まるだけだという。

20代の時は、見えるものしか書きたくなかったんです。見えないところを書いたら噓だとどこかで思っていたから。でもエンターテインメントを書くというのはたぶん、見えなくても書かなきゃいけないということで、世界がもうちょっと立体になったんだと思います。なので、行き詰まったときというのは、視点を動かさなかったという感じ。

もう書き切ったという気持ちはないのか?

【東畑】なるほど、これ以上自分を見ても新しいものは見つからないと。それで世界を見るようになって、母性とは何かとか、実際の事件とかについて考えることが小説になっていった。世界が謎めいたものとして立ち現れてきた。

【角田】はい。

【東畑】さっきの僕の話だと、昔、定年間近の先生が「私にはカウンセリングがまだ何かわからない」みたいなことを言っていて、それぐらい深いものなんだろうなと思ってたんです。かっこいいですよね。確かにそういう面もあるんだけど、答えを出せる部分ももちろんあるんですよね。20年近く真面目にやっているわけで、カウンセリングとはこういうものだというのがある程度ないと、逆にプロとして仕事しているのにおかしいですから。

そういう意味で、案外テーマというのはちゃんと終わりがあるものなのかもしれないと最近思っていたんです。どうでしょうか? 角田さんの作品のテーマは「家族」と、やっぱり「女性」です。書ききったな、といった気持ちになることはないんでしょうか。

東畑開人さん
撮影=植本一子
東畑開人さん