「外国人の権利制限」は保守か人権侵害か

ただし、国民国家の国民が同じ国籍を有する同胞を優先したいと考えるのはごく自然な感情ですから、外国人に対する権利制限の主張を「国家のアイデンティティを守る正当な行動(=正統派の保守)」と見るか、「基本的人権の侵害(=極右)」と見るかは、フランス国内、特に保守派の間でも議論が分かれる微妙な論点です。

もっとも、こうした基準とは別に、かつての国民連合は、確かに、多くの人の「極右」イメージに合致する政党だったことも事実です。

国民連合の歴史は1972年にジャン=マリー・ル・ペンが、イタリアで旧イタリア社会共和国(1943年7月から1945年4月まで、ムッソリーニがイタリア北部に樹立した親独傀儡かいらい政権)の関係者や支持者が結成した組織「イタリア社会運動」の影響を受けて、前身の組織「国民戦線(FN:Front national)」を結成したことに始まります。

1970年代初頭、特に国民戦線が生まれた1972年のフランスは、政治的にはド・ゴールの後継者であるポンピドゥーを大統領とする保守安定政権の時代でしたが、社会全体の空気としては1968年の「五月危機(メイ・レボリューション)」の余韻が強く残っており、マルクス主義、トロツキズム、毛沢東主義、アナーキズムなどの急進的左翼思想が知識人や大学生の間で広く支持されていました。

国民連合が誕生した背景

特に、中国の文化大革命の影響は大きく、「禁止することを禁止する」といったスローガンに代表される、セクシュアリティ、教育、家族のあり方など、日常生活における変革を求める運動が活発で、サルトル、フーコー、ドゥルーズ、バルトなどの著名な哲学者や作家が極左的な運動への支持を公言していました。

また、左派系野党の社会党(フランソワ・ミッテラン)と共産党が「共同綱領」に署名し、強力な左翼連合が結成されたのも1972年です(ちなみに、これが1981年のミッテラン政権誕生につながります)。

故フランソワ・ミッテラン大統領
故フランソワ・ミッテラン大統領(画像=Comet Photo A/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

こうした社会状況に危機感を抱いたジャン=マリーが国民戦線を結成すると、社会的に肩身の狭い思いをしていた急進右派の人々が党員として集まり始めます。こうして、国民戦線は、アルジェリア戦争でフランスの植民地維持を訴えた人々の生き残りや、親ナチス的な(多くの人がそう認める)極右活動家、王党派、カトリック伝統主義者など、政治的に行き場を失っていた右派勢力の寄せ集め集団としてスタートします。したがって、当初の彼らは得票率わずか0.5%から1%程度の泡沫政党であり、メディアからもほとんど無視されていました。