銭形平次が投じた四文銭
寛永通宝が造られてから百数十年が経ち、諸物価が高騰すると、一文銭ではジャラジャラと収集がつきにくくなってきた。そこで、明和四(1767)年に、四文銭の寛永通宝が造られた。四文銭の寛永通宝は、一文銭より大きく、裏には波模様がつけられている。時代劇の「銭形平次」が投げるのは、この四文銭だ。
この四文銭が流通しはじめると、勘定しやすいとの理由で、多くの日常品が四の倍数に値上げされた。いわゆる便乗値上げ、だ。それまで八~十二文程度だった蕎麦は十六文、銭湯の湯銭もそれまでの六文から八文になった。そんな時代に、「なんでも四文」という店が出てきたのだから、これはちょっと魅力的だ。
随筆集『飛鳥川』(文化七・1810年)によると四文屋は、両国や柳原あたりに出た屋台店で、「煮肴、煮しめ菓子」の類いを、一品四文で商ったという。今式に申せば「ワンコイン立ち飲み屋」といったところか。
その時代の繁盛流通貨幣である四文銭に合わせた価格設定だが、同時に商品も微妙に変わっている。たとえば団子は、それまでは五つ玉がスタンダードで、一串五文だった。これは、京の清水寺の音羽の滝の茶店を団子の起源とする風習である。清水寺の御本尊の観世音菩薩の「観音」とは、清らかな水の湧く音をさす。コポコポと湧く水泡に観・世・音・菩・薩の字をあてはめて、串団子は五つ玉なのだ。これを、四文で売らんがために四つ玉に減らした。後には、さらに物価があがったので、さらに減らして三つ玉になった。今ではあたりまえに「団子三兄弟」だが、値上げをしない代わりにスナック菓子やアイスクリームの容量を減らしていくのと同じ、本来は五兄弟であったなれの果ての三兄弟なのだ。
もう30年くらい前の話だが、名古屋駅構内の11番線だったかのあたりに、なんでも100円という立ち飲み屋があった。日本酒も、ビールも、盛り蕎麦も、なんでも100円。その代わり「100円分」という設定で、ビールも、日本酒も、小さな紙コップに100円分だけ出てくる。蕎麦も、ほんのひと啜り……しかし、酒飲みにはちょうどいい量だった。江戸の四文屋も、そういう巧いところを突いていたのかもしれない。

