「正解」ではなく「感情」を動かす

「『コンサートに聴きに来た人が、論説文を読んでいる感情を抱いてはいけない』と師匠には言われてきました」

ピアノの技術や構成の巧みさではなく、聴く者の感情を動かす演奏をすること。「師匠」のその言葉は沢田さんの中で、ピアノを弾く上での大きな基準となった。

「『上手い』と言われて終わる演奏ではなく、正の感情であれ負の感情であれ、感情的な何かを動かすような、そういう演奏ができたらいいなと常に思っています」

また、そのために必要なのは、「お客さん自身にそれが自分事だと思わせるような力」だと沢田さんは考えている。

「もし演奏が作曲家の感情をなぞるだけの説明的なものなら、CDを聴けば済む話になってしまいます。そういう演奏はしたくありません。前後の曲の流れや、その日の気分、あるいは数カ月ぶりに弾くことで得られる新たな発見。同じ曲でも、同じ演奏はありません。その瞬間のひらめきや、会場の響き、お客様が求めるものを想像しながら、そのとき、その場所でしか生まれない一回限りの演奏をしたいんですね」

正解を提示しようとするのではなく、聴き手とともに未知の感情を探り当てていく。その先に「聴く者の心を震わせる音楽」が立ち現れるという彼の音楽の理想だ。

弾きたくない日は弾かない

現在の沢田さんは前述のとおり、愛知県知多半島の総合病院に勤める小児科医である。2年間の初期研修を終え、小児科医として2年目の忙しい日々を過ごしている。

勤務時間は基本的に8時から17時だが、時間通りに帰れることは滅多にない。朝7時から勤務することもあれば、夜22時過ぎまで帰宅できないこともある。当直が週に1〜2度あり、さらに救急外来のある総合病院のため時間外の呼び出しも少なくない。インタビューを行った日も都内で新しい宣材写真の撮影があり、前夜に車を運転して東京に来た。しかし自宅を出ようとした矢先、病院からの呼び出しで再び処置をしに戻ったため、真夜中の東京入りとなったそうだ。

「明日も日曜ですが、朝から月曜昼過ぎまで病院の仕事がありますから、今日のうちに戻らないと」と言って沢田さんは控えめな笑顔を見せた。

医師として本格的に働くようになってから、ピアノへ向かう気持ちにも変化があった。「弾きたくない日は弾かない」と彼はあっさりと言う。

沢田蒼梧さん
撮影=伊藤圭

「本業は医師なので、医師としての勉強を怠ることはできません。逆にピアノは、純粋に好きだからこそ向き合えるものだと今は思っています。どうしても弾きたくないときや、疲れ果てて嫌になってしまうときは、そのまま食事も摂らずに寝てしまいますね。でも、そんな日があってもいい」

将来について訊ねると、「具体的にこうなりたい、とか、何がやりたいみたいなことはなくて――」と彼は続けた。

「医師としては、患者さんたちとの関係をしっかりと作れるようになりたいです。ピアニストとしては、演奏を求めてくれる人がいるうちは続けたい、と思っています。

ありがたいことにコンサート出演オファーはたくさんいただきますが、練習に割ける時間に限りがあるので、お引き受けする本番の数を絞っています。この後は地元である愛知東京・大阪でソロリサイタル公演予定です。

医師としてもピアニストとしても、今まで通り、与えられた目の前のこと一つひとつに誠実に向き合っていくだけです」