6年間首席だった少年の「普通」

沢田さんはこの頃からピアノだけでなく、学業においても「やればできてしまう」という傾向が同様にあった。沢田さんの通った地元・愛知の東海中学校・高等学校は、東海地方の進学校として知られる難関校だったが、彼はその6年間を通じて首席の成績を保ち続けた。

宿題は学校にいる時間のうちに全て終わらせてしまい、小テストも満点でないことの方が珍しかった。彼はこともなげに当時を振り返るが、その上で休日には10時間以上をピアノの練習に費やした。そのように学業とピアノの両立を当然のこととして続けた少年は、後に「二刀流の天才」として注目されることになった。

ただ、当時を振り返るときに沢田さんが繰り返したのは、ピアノに対するその「才能」に対して、特別な感情を抱いたことはなかったということだ。

「コンクールで合格すれば嬉しい気持ちにはなりましたが、特別な気持ちを感じたわけではなかった」と彼は淡々と話す。母親からも「ピアノは趣味だからね」と言われており、小学生の彼にとってピアノとは、未だ「弾けるから弾く」というものに過ぎなかった。

天才少年が初めてぶつかった壁

とはいえ、そんな「天才」ともいえる沢田さんにも、コンクールでぶつかった「壁」はあった。例えば、初めて全国大会に駒を進めた小学4年生の夏、東京の舞台に上がった彼は、経験したことのない緊張に飲み込まれた、と今でも振り返る。

沢田蒼梧さん
撮影=伊藤圭

「頭が真っ白になって、弾いている間のことは何にも覚えていないんです。気づいたら終わっていた感じでした」

舞台袖で待機する彼の口元は青紫色に変わり、過呼吸に近い状態に陥っていたそうだ。それはこれまで「緊張する」ことすら知らなかった沢田さんが、初めて自分にも限界があることに突き当たった瞬間だったと言える。

だから、と言っていいのだろう。中学生になり、多感な思春期がやってくると、日々の時間の多くをそのようなピアノの練習に充てることに、彼は納得のいかない気持ちを次第に抱くようになったと言う。