人気になるほど、実像から遠ざかる

さらに後世に入ると、お七は歌舞伎・浄瑠璃などのモチーフとして重宝され、数多くの作品が生み出された。そして、その過程で設定が大きく変わってしまう。

例えば八百屋の娘ではなく親から「人買い」に売られた子であるとか、犯した罪も放火ではなく、やむなく養父を殺したとか――。

時代設定が「鎌倉時代の江戸」という荒唐無稽な歌舞伎まで登場した。『松竹梅湯島掛額しょうちくばいゆしまのかけがく』だ。ここでのお七は八百屋の娘ではあるものの、恋仲となる相手の男は武士で、主君から伝説の宝刀を探し出すという指令を受けていた。だが、男は宝刀を見つけられず、その罪を問われて切腹を命じられる。

一方、お七は宝刀の在処ありかを突き止め、恋人を救うべく盗み出す計画を立てる。そのためには夜になると閉ざされる、江戸の町の木戸を開ける必要があった。木戸が開くのは火災発生時だけ。そこで櫓にのぼり太鼓を叩き、火事が起きたと嘘をつく。

つまり、この作品では放火はしない。放火犯の悪女から、恋人を救おうとするヒロインに昇華している。

こうした創作が大衆の人気を博した結果、お七の実像はますますわからなくなってしまった。

存在すら謎のまま、墓だけが残った

これまで見てきた通り、現在私たちが知るお七の物語の大半は、虚構や創作の産物である。このため「お七はいなかった」と、実在そのものにさえ疑問が呈せられている。

書影
小林明『毒婦の日本史』(鉄人社)

しかし、「いなかった」とも断言できない。信ぴょう性に難はあるが『天和笑委集』はお七死罪の翌年に執筆が開始された史料であるし、『御当代記』の著者・戸田茂睡も宝永3(1706)年死去なので、同時代を生きている。

そうした文献の記載に立てば、素性・動機などは一切不明ではあるものの、放火に手を染めた10代少女がいて、極刑に処された可能性までは捨てきれないだろう。

墓の存在も無視できない。『天和笑委集』はお七が死んだ日を「天和三年三月二十八日」とする。一方、前述・円乗寺にあるお七の墓には「天和三年三月二十九日」と、1日のズレがあるが、この程度の食い違いは誤差と見ることもできよう。お七が実在し、天和3年(1683)3月に死去した痕跡は残っているのだ。

お七の母が娘の遺骨をもらい受け、埋葬したと伝わる墓も千葉県八千代市の長妙寺にある。墓碑に刻んだ戒名は「妙栄信女」で、没した日付はこちらも「三月二十九日」。つまり、「三月二十九日」が処刑された日で、それを『天和笑委集』が1日まちがえて記したとも考えられる。

お七は実在したのか。実在したなら、なぜ放火したのか。いつ死んだのか。多くの謎を残したままだ。

[絵本] 八百屋お七
画像=国立国会図書館所蔵
市中を引き回されるお七。『[絵本] 八百屋お七』(明治14年/1881)から。国立国会図書館所蔵
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