他店で断られた靴が最後にたどり着く場所
「今年は1月〜5月上旬の間に、すでに500件近くの依頼が来てます。どれもプロが修理を断るような、ひと筋縄ではいかない靴です。うちは定額料金を設けていません。同じ靴でも壊れ方が違いますし、お客さまそれぞれが求める理想像が違います。それらを聞いてから部材選び・工賃を算出するため、数万円のものから数十万円かかるものまであるんですよ」
インタビュー中、村上さんの口から出た数十万という金額に思わず声が出た。しかしどれも持ち主の記憶や愛着が宿った特別な靴で、購入価格を上回る修理代を投じる客は珍しくないのだという。
ここは他店で「もう直せません」と断られた靴が最後にたどり着く、いわば「靴の駆け込み寺」。なぜ個人経営の修理店が減り続ける時代に、この小さな工房は世界中から選ばれているのだろうか。
ふたりの師匠から学んだ哲学
村上さんには、ふたりの師匠がいる。「靴の神様」と呼ばれた佐藤正利さんと、日本最高峰の職人と称された関信義さんだ。
両氏と出会ったきっかけは、村上さんが靴職人を目指して通っていた専門学校からの紹介。休学してまでふたりのもとに通い詰め、佐藤さんからはハンドソーン・ウェルテッド製法という伝統的な靴づくりの基礎を、関さんからは高度な応用技術を教わった。
学んだのはそれだけではない。ふたりは性格も経歴もまったく異なる職人だったが、口をそろえてこう説いた。
「食うために職人をやれ。そのために柔軟に対応しろ」
職人としてのプライドを「なにをつくるか」というエゴに置くのではなく、「どう生き残り、どう顧客の期待に応えるか」に置く。腕一本で食べてきた昭和の職人たちが、時代の流れのなかでたどり着いたスタンスだ。
生々しくも先見性にあふれたこの言葉が、のちの村上さんとハドソン靴店の運命を大きく動かしていく。
店を継ごうとする人はいなかった
ハドソン靴店は1961年、師匠のひとりである佐藤正利さんが創業した。佐藤さんは吉田茂元首相や俳優の石原裕次郎さんら著名人の靴を数多く手がけ、横浜で最後の手製靴職人といわれた人物だ。当時の外務省から御礼状を授与され、都知事賞も受賞。自ら勝ち得てきた技術を後進に伝え続けた。
ちなみに「ハドソン」という店名は、佐藤さんの師匠が愛用していた英国製バイク「ニューハドソン」に由来するそうだ。
2010年、佐藤さんが急逝。店は閉店状態となった。ある日、村上さんが焼香に訪れると、おかみさんから「店を継ぐ人がいないから、閉めようと思う」と告げられた。何十人という弟子に話を持ちかけたものの、店を継ごうとする者は誰もいなかったのだという。
「商店街は人通りが少なくて、シャッター街のような状態でしたからね。それはそうだよな、と。先代は年齢もあってほぼ隠居生活を送っていましたし、お世辞にも店の経営状態がいいとは言えなかったと思います」


