輝元の本質「自衛には動くが、攻勢に転じない」

とはいえ、毛利が完全に受け身だったわけでもない。同じ1576年、毛利水軍は第一次木津川口の戦いで織田水軍を壊滅させている。しかしこれは「信長打倒」の意志から動いたのではなく、本願寺への兵糧補給ルートを守るための自衛の論理だった。本願寺が潰れれば次は毛利の番という危機感である。

ところが1578年の第二次木津川口の戦いで、信長が投入した鉄甲船に敗れると、毛利水軍は、本願寺を見捨てた形になった。この戦いで、大坂湾の制海権を信長に奪われたとはいえ、依然として淡路島以西は毛利水軍が握っている。にもかかわらず、再進出は行われなかった。

ここに輝元の本質が表れている。自衛のためなら動く。しかし攻勢に転じる気はない。義昭という看板を飾り棚に置いたまま、包囲網の「盟主」に担がれながら、主体的には一度も動かなかった。

断るに断れない居候を抱えたら、気づけば戦争の当事者にされていた。それが鞆幕府の実態だった。

結局、動く大義というよりも、動く体制が整わないまま時間だけが過ぎていったのである。その実態が最もよく表れたのが、1582年4月末に始まった備中高松城の戦い。秀吉が足守川の水を引き込み、巨大な堤防で城を水没させていく。城主・清水宗治は必死に援軍を求めた。そして毛利の本隊は、その高松城のすぐそこにいた。

なのに、動かなかった。

秀吉の包囲陣が堅固だったことは確かだ。しかしそれ以上に、輝元には決断できない構造的な理由があった。

どう動いても“詰む”状況

仮に総攻撃をかけて負けたとしよう。その瞬間、背後の国衆たちが雪崩を打って信長側に寝返る。これは十分にありえる話だ。国衆たちにとって「毛利」はあくまで今のところ一番強い旗頭にすぎない。負け戦の臭いがした瞬間、彼らが乗り換えを検討し始めるのは合理的な判断である。

では逆に、ここで突撃を命じたとしよう。今度は別の問題が起きる。「なぜ備中高松城ごときのために命を賭けなければならないのか」という不満が軍中に広がる。国衆たちはそれぞれの本領を持ち、それぞれの論理で動いている。毛利のために死ぬ理由が、彼らにはそもそも薄い。号令をかけた瞬間に手を抜く者、最悪の場合は敵に内通する者が出かねない。

攻めれば背後が崩れる。突撃すれば内側から瓦解する。もうどうにも動けない。

どちらに転んでも詰んでいる。清水宗治は腹を切り、城は水に沈んだ。そしてその直後に、毛利氏も本能寺の変を知った。

これは毛利にとって、空前絶後のチャンスだった。目の前の秀吉軍は本国から遠く離れた遠征軍である。主君を失った混乱の中、追撃すれば壊滅させられる。そのまま畿内に雪崩れ込めば、天下は毛利のものになるかもしれない。

しかし輝元は動かなかった。

狩野元秀画「織田信長像」1583年(長興寺所蔵)の模本
狩野元秀画「織田信長像」1583年(長興寺所蔵)の模本(写真=東京大学史料編纂所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons