「動かない大義」が揃いすぎていた

秀吉が持ちかけた講和をあっさり受け入れ、追撃論を封じたのは小早川隆景だった。「今は兵を退くべき時」という隆景の判断に、輝元は従った。結果として秀吉は中国大返しで山崎に向かい、光秀を討ち、天下人への道を一気に駆け上がった。毛利にとって最大のチャンスは、こうして静かに消えた。

そんな輝元だが、1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍総大将に担ぎ上げられている。それでも、これまた大坂城に入ったまま動くことはなかった。こうなると、動かないことはもはや才能だ。

それでいて、西軍に関与した疑いは晴れず領国は2カ国に削減され父祖の地である安芸からは離れることになる……が、これにより、ようやく家臣団の統制が取れるようになったのは皮肉である。

こうして輝元は大坂の陣も終わった1625年に没した。享年73。信長・秀吉・家康という三人の天下人を全員見送って死んだ。動く大義が見つからなかったのではない。動かない大義が、最初から揃いすぎていたのだ。

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