広大な版図はあっても「手足」ではなかった
毛利元就が一代で築いた領国といえばロマンはある。でも現実には、広大な版図を持ちながら、その版図全体をまだ「自分の手足」として動かせる状態になかった。「毛利両川」は、それを象徴するものだ。ようは、かつては安芸の同格の国人にすぎなかった吉川氏・小早川氏に養子を送り込み乗っ取りを謀ったわけだ。すべては、少しでも統治を安定させるためである。
ここで、元就の人生を振り返ってみると、毛利氏の領国がいかにまとまり難い面倒な土地であるかはよくわかる。元就の勢力拡大の契機になった厳島の戦いは1555年。月山富田城を攻略して中国地方最大の大名になったのが1566年。そして元就は1571年に75歳で死去している。
つまり、中国地方の覇者になってからわずか5年で死んだ。あれほどの策略家が30年かけて積み上げた領国を、輝元はまだ固め終わっていない状態で引き継いだのだ。
しかも、元就が人生の後半に全力で国衆の切り崩し・養子送り込み・婚姻工作などを行ったにもかかわらず家臣団はバラバラ、周縁部については完全な支配には至らなかった。
“四方”に敵を持っていた
わかるだろうか。輝元のやるべきことは天下統一よりも、今ある領土の安定化である。
天下統一は夢があるかもしれないが、そんなことしても家臣同士の喧嘩がやむことはない。
「こんな状況で、上洛……信長と戦えるか‼」というのが、輝元の本音だったろう。
実際、1577年に秀吉が播磨に入ってきてから、毛利氏は東の領土を少しずつ削り取られ続けた。上月城を巡る攻防では援軍を出しては押し返される一進一退が続き、1579年の宇喜多直家の離反を境に、播磨・備前の前線は後退していく。
しかし、これを「弱かったから負けた」と見るのは早計だ。毛利の視点から見れば、東の前線だけが戦場ではなかった。九州では大友氏や、その大友氏の支援を受けて旧領回復をはかる大内氏の残党(1569年の大内輝弘の乱など)、四国では長宗我部氏と、それぞれ別の戦線が同時進行している。しかも背後の国衆はまだ完全に掌握できていない。前に全力を出したとたん、後ろが崩れる。
元就が30年かけても完成しなかった領国を抱えたまま、輝元は四方に敵を持っていた。「上洛して信長と決戦」などという話は、台所事情を知らない者の戯言にすぎないのだ。
それに加えて、1576年、将軍の座を追われた足利義昭が、備後・鞆の浦に転がり込んできた。輝元としては、断るに断れない居候である。将軍を追い返せば天下に対して義を欠く。かといって抱え込めば、信長との全面対決を宣言したも同然に見られる。
そんな人物を抱えた結果、信長包囲網の一角として巻き込まれることになってしまったのだ。

