独立した姿のまま、毛利の旗下にいる状態

ここまではまだいい。問題なのは、国衆と呼ばれる人々だ。熊谷氏・平賀氏・阿曽沼氏・天野氏・小早川氏・出羽氏など、安芸・備後周辺の独立した国人領主たちである。

もともとは毛利氏と対等な存在で、婚姻や「義兄弟の契約」によって同盟を結んでいた。毛利の勢力拡大に伴ってその傘下に入ったとはいえ、実態は「独立した姿のまま旗の下に加わった」にすぎない。

この層が完全に家臣化されるのは、江戸時代の萩への転封以降とされている。つまり、輝元の時代にはまだ統制しきれていなかった。実際、元就の書状には国衆の中には、“毛利氏をよかれと思っている者など1人もいない”と言い切っているものすらある(「毛利家文書」406号)。ここからは、毛利氏が本拠地である安芸ですらも、完全に統制できていなかったことがわかる。

毛利輝元の肖像画(写真=毛利博物館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
毛利輝元の肖像画(写真=毛利博物館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

そんな状態なのに、領国の拡大によって大量の外様が生じている。これは、大内氏・尼子氏の旧臣たち、すなわち周防・長門・出雲・石見を制圧する過程で降伏・臣従した者たちである。これも、外様だから冷遇されているというわけではなく、石見の佐世氏は広島城代に任ぜられている。また大内氏の家臣であった蔵田氏は重用され検地奉行ともなっている。

三本の矢どころか、団結できていない現実

このように毛利家の家中は複雑怪奇、それぞれ異なる経緯と論理を抱えたまま「毛利」という旗の下に並んでいるのだ。こんな状態であれば、横に並んでいる家臣同士で「なんで、あいつが俺よりも上?」「あいつの家は30年前に、うちの水を盗んだ」とかいがみ合いが絶えないことは想像に難くない。三本の矢どころか、そもそも団結しきれていないのが毛利氏の現実だったのである。

しかも、問題は家中の構造だけではない。利岡俊昭「天正末期毛利氏の領国支配の進展と家臣団の構成」(『史林』49巻6号、1966年)は、毛利氏の「八箇国御時代分限帳」を分析している。

これによれば、天正末期の毛利領国でさえ、安芸・備後のような本拠地と、出雲・備中のような外縁部では大名権力の浸透度に歴然とした差があったとしている。つまり、一応、領国にはなっているが、支配は「軍事的段階」にとどまり、政治的に完全統治するには至らない不安定な地域を抱えていたのである。