高校2年で視力が落ちてパイロットを断念
松上は1982年に福岡県で生まれた。乗り物が好きな子どもだった。アメリカに住んでいた従兄弟にお土産としてもらった飛行機の模型がきっかけで、小学校2、3年生からパイロットになることを決めたという。
「航空大学校に進むには、大学を卒業、あるいは3年次で編入という道がありました。両親が小学校のときに離婚していました。中学校のとき先生からお母さんに負担をかけないためにまずは地元の国立大学に進むこと。そこに行きやすい高校を選んだほうがいいと言われました」
しかし――。
「高校2年生のとき黒板の字が見えにくくなったんです。これではパイロットになれないと愕然としました。それまでは(航空大学校受験のための)英語や数学とか頑張っていた。めちゃくちゃショックで落ち込んで、勉強をやめました」
航空大学校の視力検査は裸眼で1.0以上となっているが、矯正も認められている。誰にも相談せず無理だと思い込んで絶望していたんですと頭を掻く。
「その後、テレビで再生医療を見て医学部に行こうと思いました。医学部は国立以外は費用的に無理。自分でハードルを一気に上げてしまった」
高校の教師たちからは、松上は本番に弱いので推薦入試で地元の国立大学工学部に進むことを勧められた。松上の母親にまで電話を入れて説得したという。
「自分のことを親身になって考えてくれた、めちゃくちゃいい先生たちでした。振り返ると、お前、ちゃんと人の話聞けよって。自分は本当に話を聞かない人間でした。すべての失敗の原因でした」
現役で国立大学医学部を受験し不合格。1年の浪人生活を送ったが、またもや不合格。そこで福岡医科歯科技術専門学校に進んだ。
大学病院では臨床工学技士が足りていない
専門学校入学直後、授業は一般教養が中心で歯ごたえがなかったという。松上は授業中、受験参考書を開いていた。翌年の医学部受験に備える「仮面浪人」である。
「受験勉強していたことが、ばれていたんでしょうね。ある先生が、一つの道を選んだならばよそ見をすることはあっても、きちんと修めたほうがいいとおっしゃったんです。一般論としての話でしたが、自分のことだなと思いました」
医師への思いは脇に置き、CEの国家資格を取ることに専念することにした。そして卒業後、とりだい病院に入ったのだ。
とりだい病院に限らず、国立大学病院ではCEが足りていない状況だった。
「例えば人工心肺。人工心肺のメンテナンス、点検はメーカーが行います。CEの仕事は人工心肺を動かすこと。ところが、とりだい病院では心臓血管外科の医師がやっていた。ECMOも同じです」
人工心肺は、心臓外科手術の際に心臓と肺の働きを一時的に代行する医療機器である。ECMOは新型コロナ禍でその名を聞いた人も多いかもしれない。
心臓や肺の働きが著しく低下したときに、体の外で血液を循環・酸素化する装置だ。その他、手術に関する機器の点検、管理についてもCEが関与している診療科は限られていた。

