狩る側から狩られる側に落ちた男の涙
ある日、ルーシーの家に強盗団が押し入りました。ルーシーは輪姦され、ラウリーも激しい暴行を受けます。ルーシーはいくら説得されても、輪姦の件を警察に訴えようとはしません。
農園の共同経営者も、ルーシーと意見を同じくします。この種の暴力が日常茶飯事である地域では、法よりも人間関係のほうが大切なのです。
都会では良識派の市民を冷ややかに見ていたラウリーですが、田舎では良識的なスタンスを取らざるをえません。大学教授という身分を捨てた彼は、もはや「狩る」側ではなく、「狩られる」側の人間です。弱者として、人権侵害に立ち向かわなくてはいけないのです。
自分のすることは本能に基づく自然な行動だと理論武装できても、一人娘が輪姦されれば怒りにふるえます。動物愛護を偽善だと冷笑しても、自らの手で犬を死なせれば涙が止まりません。
ネガティブではありますが、それらは西洋的な観念をこねくりまわしていたときには味わえなかった本物の情熱でした。
ラウリーは最後まで反省ともアップデートとも無縁です。相変わらず女性を見れば品定めが始まりますし、性交チャンスには食らいつきます。それでも非近代的な世界を生きることで、これまで近代社会に守られていた生身の自分に向き合わざるをえなくなりました。
女性のモノ扱いや周囲への冷笑の裏には、時代から見捨てられつつあることへの傷つきがあったのかもしれません。
町内会参加が新しい自分を見つける契機に
弱さを自覚したラウリーは、ルーシーが終盤でとる信じがたい決断を、理解できないながらも受け入れようとします。それからクリニックの近くに家を借り、見捨てられた犬たちの最後の尊厳を守るために働き続けることを選びました。
そんなラウリーのもとに、バイロンに見捨てられた愛人テレサのオペラのインスピレーションが降りてきました。彼は安楽死が決まっている三本足の子犬に、バンジョーで自作のオペラを聴かせるのです。
ノーベル賞作家のカズオ・イシグロは、「地域を超える『横の旅行』ではなく、同じ通りに住んでいる人がどういう人かをもっと深く知る「縦の旅行」が私たちには必要」だと言います(「東洋経済オンライン」2021年3月4日)
人権重視の社会にうんざりしたら、町内会などの地域コミュニティに参加するなどして、仕事以外の人間関係に力を入れてみるのはいかがでしょうか。
世界の広さを実感し、これまで眠っていた新しい自分が見つかるかもしれません。
『恥辱』
J・M・クッツェー
鴻巣友季子訳、ハヤカワepi文庫、2007年
J・M・クッツェー(1940―)は南アフリカ共和国の作家で、オランダ系白人(アフリカーナ)の父とイギリス人の母の間に生まれた。コンピュータ・サイエンス、言語学を学び、留学先の米テキサス大学で、サミュエル・ベケットの研究で博士号を取得。ニューヨーク州立大学で教えた後、71年に帰国。ケープタウン大学を拠点に米国の大学でも教壇に立ちながら、執筆を進める。74年の『ダスクランド』は長編第一作。『石の女』(1977)と『夷狄を待ちながら』(1980)で南アフリカのCNA賞、『マイケル・K』(1983)で英国のブッカー賞、フランスのフェミナ賞、『恥辱』(1999)で、史上初の二度目のブッカー賞を受賞。2003年にはノーベル文学賞を受賞している。(編集部)


