セクハラで告発されるも謝罪拒否

小説は一貫してラウリーの心情を中心に書かれているので、メラニーが何を思っているのかは明示されません。

しかしラウリー視点の描写だけを見ても、(おそらく有色人種の)メラニーは「首にキツネの牙がせまっているウサギ」のように、権威ある白人中年男性に逆らうすべを知らないだけで、恋をしているようには見えません。

ラウリー自身も、レイプとは思わないものの、メラニーが性交を望んでいないことは知っています。

彼にとって口説きとは、女性の隙をついてその体を征服することであり、いわば狩猟のようなもの。モノにした女性の身体に、自分の内にある「女神のような原型」を投影し、文学的な気分に浸れればいいのです。幻想の入れものにすぎないのなら、意志はないほうがいい。

だからこそフェミニズムの影響が強そうな白人ではなく、立場の弱い有色人種を狙うのでしょう。

文学とセックスがもたらすロマンに至上の価値を見いだしてきたラウリーは、加齢と時代の変化によってそこから退場せざるをえないことを、理性ではわかっていても、本心では納得できません。

本当は、自分はまだイケてると思いたい。文学トークにまだ若者を酔わせる力があると信じたい。暴力をふるうわけでなし、少々強引にことを進めても、はっきり拒絶されなければ、それはロマンスの範疇にあるはずだと。

そしてその賭けは、失敗に終わりました。メラニーからセクハラで告発されたのです。大学側は、人権を侵害したと認め謝罪すれば、復帰も可能だと温情を示します。

政治家
写真=iStock.com/Semen Salivanchuk
※写真はイメージです

しかしラウリーは自分の行動を「エロスの神のしもべとなった」と表現し、謝罪を拒否しました。本能に従ったからといって罰せられるのはおかしい。

そう信じるラウリーには、自分の行為を笑う学生たちや、うわべだけの謝罪を要求する大学人が、不自然なモラルを押し付ける滑稽な存在に思えたのです。

一人娘を頼り、動物愛護活動の手伝い始める

居場所を失ったラウリーは、片田舎で共同経営者とともに小さな農園を営む一人娘のルーシーのもとに転がり込みました。インテリの都会人である両親に似ず、ルーシーは農業や作業犬の預かり業でたくましく生計を立てています。

自分を処分した大学を「毛沢東の中国」にたとえ、「いまは清教徒的な時代」と自らを時代の犠牲者として語るラウリーを、ルーシーは懐深く受け止めてくれました。そのうえで、動物愛護活動をしている知人女性ベヴ・ショウの手伝いをしてはどうかともちかけます。

ラウリーは動物愛護にまつわる「善意」が苦手です。「美しくあることに励まない」ベヴ・ショウと働くことも気が進みません。

もっとも、性的価値の低さでは今の自分も似たようなもの。そう思うとますます気持ちは沈みます。そもそも崇拝するバイロンですら、「熱愛における本物の歓び」は30歳が区切りだと書き、30代半ばで亡くなっているのに。

でも、今さら変われません。

わが心は、古くさくて役立たずで貧困でほかに行き場を失った考えの隠れ家だ。そういう考えは追いだして、家屋をきれいに掃除すべきなのだろう。だが、そんな気はない、さらさら無い。

尿のにおいが充満するクリニックでベヴ・ショウを手伝い始めたラウリーは、そこでの動物愛護活動が想像とは異なることに気づきました。

彼女のおもな仕事は、人間に見捨てられた動物を安楽死させることです。

誰もやりたがらないその仕事を、ベヴ・ショウは死にゆく動物たちに最後の愛を注ぎながら、日々淡々とこなしています。