「信長がいること」だけに依存した町
京都が何度戦火に焼かれても復活し続けたのはなぜか。大坂が支配者を替えながらも繁栄を続けたのはなぜか。それらの都市は、長い歴史を有しているがために、権力者とは無関係に人を引き寄せるポテンシャルがあった。すなわち寺社、職人の集積、水運の結節点としての経済機能が独立して存在していた。だから、何度焼けようが、支配者が変わろうが人が集まり再興することができた。
しかし、安土はまだ歴史が浅すぎた。楽市楽座で商人を呼び込み、港を整備し、街道を掌握した。しかしそのすべては「信長がここにいる」という一点に依存していた。信長という磁石が消えた瞬間、砂鉄は散った。商人は次の権力の城下町へ移り、職人は仕事を求めて去った。
本能寺の変からわずか13日後に安土城天主が炎上したのは、ある意味で必然だったかもしれない。建物が燃える前に、すでに都市としての安土は終わっていた。
実際、信長が目指した城下町の規模がどれほどのものだったかは判然としない。1994年に滋賀県立安土城考古博物館が開館した際のシンポジウムで建築学者の内藤昌氏は、城下町の規模は5.5平方キロメートルに拡がっていたのではないかと推測している(滋賀県立安土城考古博物館編『開館記念シンポジウム「織田信長と安土城」報告書』滋賀県立安土城考古博物館、1994年)。
“権力依存の都市”は脆弱
この数字を同時代と比較すると、その意味が見えてくる。徳川家光の時代の江戸がおよそ10平方キロメートル。さらに江戸後期には70平方キロメートル規模にまで拡大した。安土の5.5平方キロメートルという推定値は、江戸初期と同程度のスケールだったことになる。
つまり信長の構想通りに安土が発展していれば、現在の近江八幡市の市街地に匹敵するような都市が琵琶湖東岸に出現していた可能性がある。それが本能寺の変という一点で、すべて止まってしまったのだ。
この後、江戸幕府が琵琶湖東岸に新たな拠点を置いたのは、彦根であった。これは、江戸に幕府が開かれたことで湖上交通の一元支配よりも、東西交通路の支配が重視された結果だったといえる。なにより、江戸幕府が必要としたのは西国に睨みを利かせるための拠点であった。一朝有事の際に名古屋、そして江戸から軍勢が駆けつけるまでの拠点として考えた場合に、最適地は安土ではなく彦根だったのだ(『彦根市史』上冊 彦根市、1960年)。
結局、人流と物流が大きく変わったことで安土は琵琶湖畔の最適地ではなくなったというわけである。
都市とは、権力が作るのではない。人が集まる理由が、その土地にあるかどうか。安土はそのことを、450年かけて静かに教えている。


